Category: R.I.P.

Sep 18 2021

ジャズの伝説的なプロモーターGeorge Weinが他界

伝説的なジャズのプロモーター、ジョージ・ウィーンが95歳で他界した。ジョージは1954年にニューポート・ジャズ・フェスティバルを開始。また、JVCジャズ・フェスティバル、ニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテージ・フェスティバル、ボストン・グローブ・ジャズ・フェスティバルやプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルなど次々と立ち上げた。ジョージ本人もピアニストで、1950年にボストンのジャズクラブ、ストーリーヴィルを開店、自分が好きなミュージシャンをブッキングしていたら、多くが後にスターとして活躍した。彼自身はクラブ経営で儲けることはなかったが、裕福なジャズ・ファンや、多くのジャズ・ミュージシャンらに支えられ、フェスティバル・ビジネスを開始。彼が主催したフェスティバルでの有名なレコーディングのひとつに、マイルス・デイヴィスの『Round Midnight』(1955年にライブレコーディングし、これによってコロムビアとの契約につながり、ドラッグから足を洗った後の再起のきっかけとなった)。また、ボブ・ディランが1965年に『電化(フルアコースティックからエレキサウンドへ)』したのもニューポートのフェスティバルだった。他にも、デューク・エリントン、エラ・フィッツジェラルド、ビリー・ホリデイ、ニーナ・シモン、ハービー・マン、ジョン・コルトレーンやカウント・ベイシーら、多くの有名なライブ・レコーディングが残されている。ジョージは彼のプロダクション会社、フェスティバル・プロダクションズを2007年に売却したが、最後まで音楽と共にあった。音楽ビジネスの巨人、ジョージ・ウィーンよ、安らかに。

 

Sep 04 2021

Everly BrothersのDon Everly他界

伝説的な歌唱デュオ、エヴァリー・ブラザーズのドン・エヴァリーが84歳で他界した。この兄弟は本当に素晴らしい「兄弟によるハーモニー」で知られ、1957年のヒット「Bye Bye Love」から数々のヒットソングを世に送り出した。彼らのサウンドは、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、ビージーズ、サイモンとガーファンクルなど、多くのアーティストに影響を与えた。エヴァリー・ブラザーズのサウンドはフォーク・カントリー・ロックのミックスと言われ、アメリカの音楽ムーブメントに多大な足跡を残した。彼らのヒット曲の多くはフェリスとブーデロウ・ブライアント夫妻によって作られたが、スマッシュ・ヒットとなった「Cathy’s Clown」はドンの作曲で、USチャートで1位を獲得、世界中で800万枚を売り上げ、ビートルズの「Please, Please Me」のインスピレーションとなった。

Aug 21 2021

Mike Finniganが癌で他界

ベテランのキーボード奏者、マイク・フィニガンが76歳で他界、原因は癌だという。ソロでもいくつものアルバムを上梓しているが、フィニガンは基本的にはサポートプレイヤーで、クロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ、ジョー・コッカー、、ケブ・モー、デイヴ・メイソン、レス・デューデック、ボニー・レイット、ジミ・ヘンドリックス(「Still Raining, Still Dreaming」)やタージ・マハルらのアルバムなどに登場することでよく知られている。

Jul 31 2021

ZZ TopのJoseph “Dusty” Hill、死去

ZZトップのベースプレイヤー、ジョセフ・”ダスティ”・ヒルが72歳で他界した。死因は発表されていない。彼は近年腰に問題があり、ヒルの要請で、長年ZZトップのギター・テクニシャンを務めていたエルウッド・フランシスがいくつかのライブで代理を務めている。ZZトップは1970年から変わらないラインナップで15枚のアルバムをリリースし、5千万枚を売り上げている。ビリー・ギボンズがリード・ボーカルとしてこのブルース・ロック・トリオの殆どの曲を歌っていたが、ダスティ・ヒルはファンから最も愛された「Tush」「Beer Drinkers and Hell Raisers」のリード・ボーカルだった。

Jul 30 2021

Chuck E. Weissが癌で他界

チャック・E・ウェイスが76歳で癌により死亡した。ウェイスは長年、LAの音楽シーンでは欠かせない存在だった。彼を有名にしたのは、リッチー・リー・ジョーンズの1979年のヒット曲「Chuck E’s in Love」。また、彼はトム・ウェイツとの長年の友人で、ウェイツの曲「Jitterbug Boy」の中で触れられている。彼のキャリアは変わっていて、ライティン・ホプキンスとドラムを演奏したり、バンドP&ジョニー・デップやバットホール・サーファーズのギビー・ヘインズと一緒に演奏、またTVなどで脇役として登場、彼のバンドであるゴッダム・ライヤーズとLAのクラブ・セントラル(後のバイパー・ルーム)で定期的にギグを行いながら、ソロでも何枚かアルバムを出版している。

 

Jul 18 2021

訃報:ニューオリンズのライブハウスオーナーDale Triguero

ニューオリンズのライブハウス、チッキー・ワー・ワーのオーナー、デイル・トリゲイロが68歳で他界した。心臓に問題があったという。トリゲイロはこのライブハウスを2006年にオープン以来、新進気鋭のアーティストや、中堅アーティストを見出すことで知られていた。このライブハウスから育ったアーティストには、パパ・グロウズ・ファンクや、アンダース・オスボーン、ボネラマ、ジョン・クリアリーがいる。

May 25 2021

伝説のドラマーRoger Hawkins、他界

マッスル・ショールズのセッション・プレイヤーにして伝説のスタジオ・ドラマー、ロジャー・ホーキンス(スワンパーズとして知られていた)が75歳で死去した。ロジャーは多くのR&Bのスーパーヒット曲に参加、アレサ・フランクリンの「Respect」や「Chain of Fools」、パーシー・スレッジの「When a Man Loves a Woman」やウィルソン・ピケットの「Mustang Sally」「Land of a Thousand Dances(日本ではダンス天国として知られている)」がよく知られている。ロジャーはまた、エリック・クラプトンのレコーディングやポール・サイモン、ロッド・スチュワート、ボブ・シーガーらの定番のシンガーらのレコーディングにも参加している。
本当に偉大なロジャー・ホーキンス、安らかに。

May 19 2021

R&Bシンガー、Lloyd Price他界

R&B歌手のロイド・プライスが88歳で他界した。彼の最初のヒットは1952年の「Lawdy Miss Clawdy」(スペシャリティ・レコードから出版)。この曲はニューオリンズでロイドの泣きむせぶようなボーカルに、ファッツ・ドミノのピアノとアール・パーマーのドラムスで録音された。この曲はR&Bチャートで1位を獲得したが、メインチャートでは泣かずとばず、それでも100万枚以上売り上げ、後にエルビス・プレスリー、ポール・マッカートニー、ジョー・コッカー、トータス松本など錚々たるメンバーによりカバーされている。1954年、徴兵された際レーベルの契約が解除になったことが判明。1959年にABCに移籍、ニューオリンズのスタンダードナンバーであるバーでの喧嘩を歌った「Stagger Lee」のスイング・バージョンで新たな大ヒットを飛ばす。その後、「Personality」でR&Bチャートで1位、ポップスチャートで2位、UKチャートで9位になり、この曲が彼の代表曲となる。その後、彼は食品会社を始めたり、ナイトクラブやレコードレーベルのオーナーになったり、ドン・キングのボクシングの試合のプロモーションを手伝ったりと多方面で活躍。彼のかいた自伝は、その後『Lawdy Miss Clawdy』というミュージカルにもなっている。

Apr 18 2021

PocoのRusty Young、75歳で逝く

バンド、ポコの創設メンバーで、唯一継続メンバーだったラスティー・ヤングが75歳で他界した。ヤングはスティールギター奏者で、バッファロー・スプリングフィールドの「Kind Woman」にも参加している。バッファロー・スプリングフィールド解散後、そのメンバーだったリッチー・フューレイ、ジム・メッシーナ、ヤングとベーシストのランディ・マイズナー、ドラマーのジョージ・グランサムがカントリー・ロックバンドのポコを結成。マイズナーはポコを脱退後、イーグルスに参加している。マイズナーの後釜にはティモシー・B・シュミットが入るが、その後彼も脱退、イーグルスに移った。メッシーナはポコを離れるとヒット・デュオとなるロギンズ&メッシーナを結成する。ポコはカントリー・ロックをジャンルとして確立させたが、メンバーの変動が多く、また人気としてもそこそこだった。一番よく聴かれたのは「Crazy Love」「Keep On Tryin’」、そしてリッチー・フューレイがグラム・パーソンズについて書いた曲「Crazy Eyes」だった。安らかに。

Mar 21 2021

ジャズベーシストPaul Jackson他界

ジャズベーシストで作曲家でもあったポール・ジャクソンが73歳で他界した。ジャクソンはカリフォルニア州オークランド生まれ。彼は9歳でベースを始め、オークランド・シンフォニーと14歳で共演している。サンフランシスコ・コンサーヴァトリーで音楽を学んだ彼は、後に教育者としても活動した。彼が一番よく知られているのは、ハービー・ハンコックとの後半にわたる共演・共作だろう。特に参加した『Head Hunters』アルバムは、アルバム自体がジャズにファンクの要素を強く使った草分けの作品として高く評価されている。オリジナルのヘッドハンターズ・メンバーはハンコックとジャクソンに、ハーヴィ・メイソンがドラムを担当(1アルバムでマイク・クラークと交代した)、ビル・ウィザーズがパーカッションを担当した。彼らの最も著名な曲である「God Made Me Funky」はグラミー賞にノミネートされ、後にフージーズ等にサンプリングされている。ハンコックとジャクソンは「Chameleon」を共作、この曲は現在ジャズのスタンダードナンバーとされている。ジャクソンは他にも、サンタナ、アステカ、ソニー・ロリンズ、スタンリー・タレンタインやポインターシスターズなどとも共演している。1985年に彼は神戸に移住し、日本各地で音楽教育に携わる傍、東芝EMIから『Black Octopus』アルバムを上梓し、高く評価されている。日本でも彼はChar、ツトム・山下、渡辺貞夫など多くのトップミュージシャンと共演している。また、彼はドラマーのマイク・クラークとも強い友情を継続、1998年にアルバム『The Return of the Headhunters』をリリースした。

安らかに。

Feb 27 2021

Gene Taylorが68歳で他界

ピアノの偉人、ジーン・テイラーが68歳で他界した。LAにルーツがあるロックバンド、ザ・ブラスターズのキーボーディストとして特に知られているテイラーだが、彼は10代の間にブルースの偉大なアーティストだったビッグ・ジョー・ターナーやT-ボーン・ウォーカーと共演している。また彼は、ブルース・ロックの大御所バンド、キャンド・ヒートやロニー・ホーキンズ、ダウンチャイルド・ブルース・バンドやファビュラス・サンダーバーズらとも共演、プロジェクト・グループのフォーマリー・ブラザーズにもダグ・ショーン、アモス・ギャレットらと参加。このグループでは1999年に日本でアルバム録音も行っている。正確な死因はまだ不明だが、彼は類を見ない大寒波に見舞われ、5日間も停電となっていたテキサスの自宅で発見されている。

Jan 17 2021

Sylvain Sylvainが他界

ニューヨーク・ドールズのギタリスト兼ソングライターとして知られるリズム・ギタリスト、シルヴァイン・シルヴァインが癌との戦いを終え、他界した。シルヴァインはエジプトのユダヤ系一族の出身。政治的な問題から、彼が10歳の時にパリへ、その後ニューヨークへと移住した。高校卒業後、アパレル業界でふらふらしていたところ、マルカム・マクラーレンと出会う(その後ドールズのマネージメントを短期間だけ担当、その後シルヴァインに彼がマネージメントすることになるセックス・ピストルズに参加しないかと誘った)。ドールズは1973年のデビューアルバムをするなりセンセーションを巻き起こし、クリーム・マガジンの読者による投票で、ベストバンドと最悪バンド両方の1位を獲得した逸話がある。初期のドールズは、内部の不和やジョニー・サンダースとジェリー・ノーランのドラッグ問題などにより、1974年に出した『Too Much Too Soon』を含む2枚のアルバムしか出せなかった。それでも、ニューヨーク・ドールズはグラム・ロック・ムーブメントの代表バンドの1つとして君臨、パンクロックに大きな影響を与えた。ドールズの解散後、シルヴァインはドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンとヨハンセンのソロバンドで活動、1975年にはジェフ・ベックと、日本の後楽園でのライブに新生ニューヨーク・ドールズとして来日公演を行っている(メンバーは刷新後)。

ドールズの熱烈なファンのひとりとして、有名になる前のモリッシーがいる。彼は自分でドールズのTシャツを作ったり、スクラップブックにバンドの写真や記事を集めていた。2004年に、モリッシーのリクエストに答えて残っていたドールズのメンバーがロンドンで開催されたメルトダウン・フェスティバルに参加した。この時の様子は映画化され、ヴィデオとしてリリースされた。その後、残ったドールズのメンバーはそれぞれのサイドプロジェクトを行いつつ、3枚のアルバムをリリースする。2018年2月にはシルヴァイン、そしてドールズに後から参加したスティーヴ・コンテ、サミ・ヤッファが東京のクラブでギグを行った。
安らかに。

Jan 10 2021

Gerry Marsdenが他界

1960年代のイギリスバンド、ジェリー&ザ・ペースメーカーズのジェリー・マースデンが1月3日、他界した。彼のバンドは1963年のデビュー曲「How Do You Do It?」からチャートNo.1ヒットに輝くなど高い人気を誇った。この曲は、ビートルズのプロデュースもしていたジョージ・マーティンが手がけている。彼らもビートルズと同じリバプール出身で、同じようにブライアン・エプスタインのマネージメントを受けていた。デビュー作に続くシングル2枚も「I Like It」「You’ll Never Walk Alone」UKチャートで1位を獲得。アメリカではそこまで振るわなかったものの「Don’t Let The Sun Catch You Crying」でブレークスルー。また、映画『Ferry Cross the Mersey』にもバンドで出演、タイトルトラックも担当し、こちらもヒットとなる。しかし、その絶大なる人気にもかかわらず、1965年後半にはビートルズの影に徐々に押しやられていく。バンドのヒット曲「You’ll Never Walk Alone」はミュージカル『Carousel(邦題:回転木馬)』は、その後長い間人気を博し、リバプール・フットボール・クラブのテーマ曲でもあった。安らかに。

Dec 31 2020

ギターの名人Tony Riceが他界

ギターの名人と呼ばれた、トニー・ライスが69歳で他界した。ライスは元々はアコースティックのブルーグラスを演奏していたが、彼のヴィルチュオーソとしての能力が、ジェリー・ガルシア、デヴィッド・グリスマン、ベラ・フレック、クリス・ヒルマン(バーズ、フライング・ブリトー・ブラザーズ)やノーマン・ブレイクなど、ジャンルを問わず多くのトップ・プレイヤー達との共演に繋がった。安らかに。

Oct 10 2020

ギター・レジェンド、Eddie Van Halen逝く

ギターのアイコン(象徴)エディ・ヴァン・ヘイレンが65歳で癌により他界した。エディは10代早くから喫煙・飲酒を始め、過ごすことも多かった。しかし彼が2000年に口腔癌で舌の一部を切除することになった理由は、金属のギターピックを口に含む癖によるものだったという。エディと彼の兄でバンド仲間のアルはオランダで、オランダ人の父とインドネシア人の母の間に生まれた。彼らは1962年に家族でカリフォルニアに移住した子供時代にバンドで演奏を始めた。その内、彼らはベーシストのマイケル・アントニー、シンガーのデイヴィッド・リー・ロスと合流し、ロスがバンド名をヴァン・ヘイレンにしようと提案するまで、マンモスという名前で活動を始める。

ロサンゼルス地域のクラブで人気が出ると、ワーナー・ブラザーズと契約し、テッド・テンプルマンがプロデュースした、バンド名を冠するデビューアルバムをリリース。テンプルマンはそれ以前にもうモントローズと仕事をしていたため、その新しい世代のメタル・プロダクションがエディの革新的で派手なスタイルにマッチした。このアルバムはすぐに業界にインパクトを与えた。エディのフィンガー・タッピング、ワミーなバー・エクストリームや、焼けつくようなランはすぐに注目の的となる。しかし、彼らのシングルはポップ・ラジオにアピールできず、アルバムはビルボードチャートでも19位までしか上がらなかった。これは、彼らのアルバムがその後1000万枚異常を売り上げ、ロックのクラシックと呼ばれていることを思うと、驚くべきことだ。その後バンドは次々にトップ10にランクインするミリオンセラーを発表し続け、大きなアリーナでライブを行った。

その間、バンド内ではエディとデイヴィッドの間で方向性やサイド・プロジェクトについて小競り合いが続き、エディがマイケル・ジャクソンの「Beat It」であの有名なソロパートを演奏、またロスはソロEPを出版。1986年、ロスは元モントローズのシンガー、サミー・ヘイガーにとって変わられる。多くのファンは、このバンドはロスのちょっと抜けた魅力、オフビートな歌詞の歌い方などがなくて続けることができるのか危ぶんだが、実際にはヘイガーで大きな成功を治める。しかし、1996年にはアルとエディはヘイガーと仲違いをし、その後ロスと再合流する。これが多くの合流と離散の始まりとなる。ヘイガーが戻ったり、元エクストリームのシンガー、ゲイリー・シェローンとの大失敗のアルバムなどを経験するが、ライブ観客動員数は変わらず多かった。マイケル・アントニーもバンドから出ることになったが、理由は明らかにされていない。予測されていたのは、曲の著作権の配当割合での問題、またはエディが息子のウォルフガングをバンドに参加させたかったから、とも言われている。2007年にはエディの飲酒問題が明らかになり、最初のリハビリテーションに(その後何度も行くことになったとも言われている)。

キャリアの浮き沈みはあったものの、エディはロックの歴史に確かな場所を築き、ジミ・ヘンドリックスやチャック・ベリーしか辿りつかなかった場所にたどり着いたとも言えるだろう。彼がギターの演奏方法に新たなスタンダードを生み出したことに疑う余地はない。安らかに。

Oct 10 2020

Johnny Nashが80歳で他界

シンガーのジョニー・ナッシュが80歳で他界した。元々は1972年のレゲエ風スマッシュ・ヒット「I Can See Clearly Now」の他にも、彼は数々のレーベルと契約し、他にも多くのレコードでチャートイン、音楽業界の様々な場所で仕事を請負い、レゲエを世界的な音楽として紹介する際大きな役割を担った。

彼が初めてジャマイカを訪ねたのはレコード・プロデューサーとして、ジャマイカでのレコーディングのコストが低いことが魅力だった。しかしナッシュはボブ・マーリー、リタ・マーリー、バニー・ウェイラーやピーター・トッシュのパフォーマンスを見るとすぐに契約を結ぶ。1971年には、ナッシュはマーリーの「Stir It Up」のカバーでイギリスでヒットを飛ばす。1972年のナッシュのイギリスツアーではマーリーが前座として一緒にツアーしている。彼らはそこでアイランド・レコードを率いるクリス・ブラックウェルに出会い、ウェイラーズのデビュー曲「Catch a Fire」を1973年にリリースした。ジョニー・ナッシュ、安らかに

Oct 10 2020

Tower of PowerのRocco Prestiaが死去

タワー・オブ・パワーのファンは、9月29日に初期メンバーでベーシストのロッコ・プレスティアが69歳で他界したと聞いて悲しみにくれた。死因は明らかにされていないが、ロッコは多くの健康問題をかけていて、2002年に肝移植を受け、2006年に心臓手術を受け、2014年には腎移植も受けていた。ロッコは楽譜を読むことができなかったが、彼のおさえた、ファンキーなフィンガースタイルは、マスター・ドラマーのデイヴィッド・ガリバルディとマッチしてタワー・オブ・パワーのR&B・ファンクサウンドには不可欠で、バンドの人気曲にはほとんど参加していた。1977年に、薬物の過剰摂取からロッコはバンドをクビになったが、1984年にはバンドメンバーから戻って欲しいと要請があり戻ると、健康が許す限りバンドでの演奏を続けた。タワー・オブ・パワーは日本でも長期にわたり人気をほこり、ロッコは日本限定のソロアルバム『Everybody on the Bus』をリリースしていた。安らかに。

Oct 04 2020

テキサスの誇るミュージシャンRoy Head 他界

テキサスの伝説的なミュージシャン、ロイ・ヘッドが79歳で他界している。ロイは華々しいホーンを多用した初期の大ヒット「Treat Her Right」でよく知られている。初めて彼の曲を聴いて、その深い声と、情熱的な歌い方、ロックなサウンドに、エルヴィス・プレスリーと間違えた人も多かったそうだ。初期のエルヴィスと同じに、ロイの曲も多くはロカビリースタイルを採用していた。「Treat Her Right」はインディ・レーベルからリリースされたが、400万枚を売り上げ、「Gloria」や「Mustang Sally」のようなバーソングの定番となった。ロイはテキサス州サンマルコスをベースに活動したロイと彼のバンド、トレイツは、テキサスでは特に人気で、地元でのヒットも多かった。彼らのライブは荒っぽさで知られていて、ロイは舞台を縦横無尽に踊り回り、気分次第でシミー(体をシェイクする動き)やスライド(舞台を滑っていくステップ)、スプリットや宙返りなどを披露していた。ロイはロスコー・ゴードンのカバー曲「Just A Little Bit」を含むマイナーヒットも多い。1967年には、メンバーが兵役に服すなどの理由でバンドが解散。その後、ロイはカントリーでのレコーディングがふえ、24曲がチャート入りしたが、トップ10には及ばなかった。彼のスタイルがバラバラだったから、本来であれば成功できたところが及ばなかったという人間もいるが、彼のパフォーマンスを見た人間の多くは熱烈なファンとなった。マーク・サンドマンは、モーフィンを結成する前にトリート・ハー・ライトというバンドを組んでいた。ロイの息子、サンダンスはテレビの歌唱コンクールで2回優勝し、モータウンとの契約を勝ち取っている。
ロイ・ヘッド、安らかに眠って欲しい。

Aug 25 2020

ドラマーのFrankie Banaliが癌で他界

ロック・ドラマーのフランキー・バナリが膵臓癌のため、この世を去った。68歳だった。彼は最初のメタルバンドと呼ばれ、1983年の「メタル・ヘルス」といういうアルバムでチャート1位を獲得したクワイエット・ライオットのドラマーとして有名で、彼らとつかず離れず、共に演奏を続け、ケヴィン・ダブロウの死後はリーダーとなった。生粋のニューヨーカーだったが、キャリアのためにロスに移住。ステッペンウルフやヒューズ/スラール、ビリー・ソープ、WASP、日本のギタリスト、クニとも活動している。バナリは日本文化に非常に傾倒していて、日本の陶磁器のコレクターでもあった。安らかに。

Aug 25 2020

ギタリストのRon “Rontrose” Heathmanが他界

スーパーサッカーズでギターを弾き続けていたロン・”ロントローズ”・ヒースマンが他界した。死因は未発表。ヒースマンはバンドの創立メンバーで、1992年にバンドがサブ・ポップと契約し「The Smoke of Hell」をリリースして最初に名前を売る以前から所属していた。このバンドはパンクとハードロックのミックスサウンドで知られていて、彼のエネルギッシュなギターパフォーマンスは多くのファンを集めた。ヒースマンは1997年に一度バンドを離れたものの、1997年のアルバム「Must Been High」でカムバック。この時バンドの方向性がカウパンクと呼ばれる方に転換した。他にも、彼らのサウンドはティン・リジーとジョニー・キャッシュを合体させたようだとも言われている。バンド自体ではメジャーヒットはなかったが、彼らのライブは常に人気で多くの献身的なファンがいる。ロンはその後、2009年にバンドを離れ、コーヒーの勉強をして自分のショップを開いていた。 安らかに。

Jun 27 2020

実業家Marc Zermatiが他界

パリをベースに活躍していた音楽実業家のマルク・ゼルマティが6月13日、心不全により他界した。マルクはアルジェに生まれ、フランスで育っている。彼は最初にオープン・マーケットと呼ばれるレコードショップを開店、その後ライブ・イベントを開催する方へ移行。彼はクラッシュ、ハートブレーカーズ、エディ・アンド・ザ・ホット・ロッズ、ラモーンズを含むパンク黎明期のバンドのライブを手掛け、パンク系のフェスの開催もしていた。1972年にはレーベル、スカイドッグ・レコードを開始、イギー・ポップやダムド、MC5等を手掛けた。また、パンク以外の音楽ジャンルも開拓、特にジャズやエクスペリメンタル系の音楽を手掛ける。彼は日本のスマッシュ・プロダクションとも仲がよく、フジロックに毎年参加するなど、定期的に訪日していた。また彼は、日本の女性ロックバンド、54ヌード・ハニーズをプロデュース、ヨーロッパツアーをアレンジしたため、カルト的な人気となった。芯まで音楽を愛したマルク・ゼルマティ、安らかに。

Apr 15 2020

John Prineがコロナ 関連死

シンガーソングライターのジョン・プラインが73歳でコロナ 関連死した。彼はこれ以前、2度ほど癌で危険な状態を切り抜けていた。

プラインは1972年のデビュー以来、強い人気を誇り、彼の世代では最高のソングライターと呼ばれつつも、チャートインするヒットを出したことはなかった。彼のキャリアは非常にユニークなルートを辿っている。14歳でギターを始めた後、軍隊に所属し、ドイツでメカニックとして働き、その後シカゴで郵便局員となり、そこでオープン・マイク(飛び入りスタイル)のライブに参加していた。彼を最初に発見し、メジャーなレコーディングをさせたのは、高名な映画評論家のロジャー・エバートが、映画館の後にフラッと立ち寄ったバーでプラインの演奏を見て、映画よりもプラインのことについて書いたのがきっかけだった。クリス・クリストファーソンは初期からのファンで、ニューヨーク市でのライブの前座としてプラインを起用。その場でレコード会社重役のジェリー・ウェクスラーに見出され、翌日にはアトランティック・レコードで契約に至る。プラインのサウンドは、どちらかというとロックというよりフォークだが、FMラジオにたびたび取り上げられる。彼はその意味深く、素朴で、ユーモラスな歌詞からマーク・トゥウェインやボブ・ディランと並び称されることが多い。実際、ボブ・ディランも初期からのプライン・ファンだ。ジョニー・キャッシュも同じく初期からのファンで、プラインの曲のカバーを何度もレコーディングしている。多くの歌手が彼の曲をカバーしていて、まだゲイの発展場でバリー・マニローをピアノに歌っていたベット・ミドラーや、モーターサイクル・ギャング(アメリカ式暴走族)のメンバーで刑務所にも服役した、アウトロー・カントリー歌手のデイヴィッド・アラン・コーなど。ロジャー・ウォーターズは最初ファンだったが友人となり「Hello In There」のコピーを何度もライブで披露している(彼はプラインの「Sam Stone」の部分部分を、ピンクフロイドの「The Post War Dream」に使ったりもしている)。ボニー・レイットは「Angel From Montgomery」を録音した30人以上の歌手のうちの1人で、レイットバージョンは大人気となった。プラインのアルバムは、流行を追うことなかったため大きく売れなくとも、着実に販売実績を重ねた。それぞれのアルバムにきちんと良い歌が録音されていた。ファンの間でも、ブルーグラス・サウンドの強い2枚目のアルバム『Dioamonds in the Rough』と6枚目のロカビリー風アルバム『Pink Cadillac』は混同されることが多い。プラインはメジャー・レーベル・システムと合わず、1981年には自分のレーベル、オー・ボーイ!を立ち上げた。その後、共作を始め、ボビー・ブラドック、ダン・ペン、スプーナー・オールダム、ドニー・フリッツ、ブラック・キーズのダン・オーバック、シェル・シルヴァーステインやボビー・ウィットロックらとコラボした。2016年に彼はトップの女性カントリーシンガーらとデュエットアルバム『For Better, or Worse』を制作。2018年のアルバム『The Tree of Forgiveness』は、セールスとしては15万枚とそこそこの売り上げだったにもかかわらず、ビルボードチャート5位になった。2020年にはグラミーの特別厚労賞生涯業績賞を受賞。彼の死後、彼の曲の多くが北米アップル・チャートにランクインした。彼がアイリス・ディメントとデュエットした「In Spite of Ourselves」が一番人気のようだ。

世界でも最高のソングライターの1人だった、ジョン・プライン、安らかに。

Apr 04 2020

ジャズ・トランペットのWallace Roneyもコロナに

ジャズ・トランペットのウォレス・ルーニーもコロナウイルスにより59歳で死去した。彼はクラーク・テリー、ディジー・ガレスピーやマイルス・デイビスに学び、デイビスの弟子でもあった。彼は4歳で完璧な音感を持っている事がわかり、すぐ音楽の勉強を始めた。15歳でプロとしての最初のレコーディングを行い、16歳でシダー・ウォルトンのバンドに参加する。トニー・ウィリアムズやアート・バークレーらとの共演を経て名前を知られるようになり、引っ張りだことなった。彼個人の名義で、ミューズ、コンコード、ワーナー・ブラザーズなど多くのレーベルからアルバムも発売している。1994年、アルバム『A Tribute to Miles』に参加した事でグラミー賞を受賞した。

Apr 04 2020

コロナによりAdam Schlesingerも他界

先週、コロナウイルスで陽性が出ていたパワー・ポップ・グループ、ファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーが享年52歳で逝去した。彼は2003年の大ヒットソング「Stacy’s Mom」のファウンテンズ・オブ・ウェインのメンバーとして最もよく知られてはいたが、ソロプロジェクトでもエミー賞、グラミー賞を獲得、トニー賞やゴールデン・グローブ賞にもノミネートされた。彼がトム・ハンクスの映画『That Thing You Do!』の劇中バンド、ワンダーズの曲として書いた映画のタイトルソングはさらに知られているかもしれない。アダムの友人、マイク・ヴィオラが歌っている。また、彼はゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツやモンキーズら、数々のアーティストのプロデュースも手掛けていた。彼の書いた曲は、ジョナス・ブラザーズや、ケイティ・ペリー、アメリカ・ボーリング・フォー・スープ、クリック・ファイブらに歌われている。

Mar 31 2020

Alan Merrill、コロナウィルス感染で他界

ロック・ミュージシャンのアラン・メリルが69歳で、コロナウイルスの感染により他界した。アラン・メリルはニューヨークに、サックス奏者のアーロン・サクスと、シンガーのヘレン・メリルというジャズミュージシャンの両親の元で生まれた。9歳から13歳の間はスイスの寄宿学校に通う。アメリカに帰国すると、彼はニューヨークの名所でもあるカフェワッ?で演奏していた、数々のセミプロバンドでプレイした。彼の母親の2人目の夫はメディアの重役で、彼女は1966年に、アランを連れて夫と東京に移る。この頃には彼女はメジャーなスター歌手で、クリフォード・ブラウン、クインシー・ジョーンズ、エンニオ・モリコーネやギル・エヴァンスらと共演。アランは渡辺プロダクション、RCAヴィクターと契約し、『時間ですよ』という人気ドラマに出演したアイドル風バンド、ザ・リードにも参加、CMにも出演していた。のちに、スパイダーズのムッシュかまやつひろしや、テンプターズの大口 広司らとヴォッカ・コリンズというグラム風味のスーパーグループを結成、アルバム『東京−ニューヨク』を東芝EMIから発売している。

その後、彼はロンドンに移住し、ギタリストのジェイク・フッカーやドラマーのポール・バーリーとアローズを結成。プロデューサーに著名なミッキー・モースト(アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・ヤードバーズを手掛ける)を迎えた。彼らはUKで、ヒットメーカーの作曲家デュオ、チャップマン・チンが作り、トップ10となった「Touch Too Much」を数えると、3度チャート入りヒットを飛ばしている。この曲はのちにローマン・ホリディ、ヘローやロンドン・カウボーイズらがカバー。しかし、彼の人生で最大のヒットとなったのは、彼とフッカーが共著したB面用の曲、「I Love Rock’n’Roll」だった。ジョアン・ジェットはアローズがこの曲を演奏するのを、1976年、ランナウェイズとのツアー中にテレビで見た。彼女は1981年にこの曲をソロシングルとして発表し、全米チャート1位に7週に渡り輝くことになった。2002年にはブリトニー・スピアーズがバージョン違いで録音し、2011年にはラルク・アン・シエルが別のバージョンをカバーしてペプシのCMに起用された。スーパーフライは、2015年にカバーを発売したが、その時のギタリストはアーロンだった。ウィアード・アル・ヤンコヴィックはパロディ・バージョンを録音、タイトルも「I Love Rocky Road」に変えた。ジョアン・ジェットのバージョンは、繰り返し様々な映画に起用されている。

後にアランはランナーというバンドを結成し、チャートインをするが、こちらは短命に終わる。その後、彼はリック・デリンジャーやルー・ロウルズらの曲を共作したり、ミートローフのバンドに短期間在籍。

また彼は折に触れ日本に戻ってきている。1990年にはヴォッカ・コリンズの再結成ツアーでも来日していた。

安らかに。

Mar 27 2020

Genesis P-Orridge白血病で他界

伝説となった、様々な意味で注目のメディア・アートバンド、スロッビング・グリッスルの共同創設者だったジェネシス・P・オリッジが白血病で他界した。スロッビング・グリッスルはインダストリアル・ミュージックの先駆者と言われ、自分たちのレーベルからアルバムもリリースしていた。バンド自体が活動していたのは1976年から1981年の期間だけだったが、ジェネシスと他のメンバー達−コージー・ファニ・トゥッティ、ピーター・クリストファーソンやクリス・カーターらは、サイキックTVやクリス・コージー・アンド・コイルなど様々なプロジェクトを立ち上げ、カルト的なファン層を獲得していた。2004年に再結成もするが、2009年にまた解散。ジェネシスはジャックリーン・メアリー・ブレイヤー(レディ・ジェイとして知られる)と1995年に結婚し、二人でお互いに似せていくための数々の身体改造手術を行うプロジェクト、「パンドロジェニー・プロジェクト」を行う。このプロジェクトは、2007年のジェイの死後も続けられた。彼は最初の妻、ポーラ・ブルッキングとの間に2人の娘を設けている。

Mar 08 2020

ジャズピアニストのMcCoy Tyner他界

ジャズピアニストのマッコイ・タイナーが81歳で逝去。タイナーはマイルストーンやブルーノートから多くのアルバムを発表し、フレディ・ハバードやジョー・ヘンダーソン、ウェイン・ショーターらビッグネームともレコードを発表。さらに、ジョン・コルトレーンのバンドの支柱としてマスターピースと呼ばれる「A Love Supreme」をレコーディングしたことで非常に名高かった。

Feb 08 2020

Ivan Kralが他界

チェコ生まれのアメリカ人ミュージシャン/ソングライター/映画製作者のアイヴァン・クラールが71歳で他界した。アイヴァンはニューヨークのグラム・ロックバンド、ルーガーでキャリアをスタート。その後短期間ショーン・キャシディのバンドやブロンディとの共演を経て、ベーシストとしてパティ・スミス・グループのオリジナルメンバーとなった。最初の5枚のアルバムに出演、「Ask The Angels」「Ain’t It Strange」「Pumping (My Heart)」や「Dancing Barefoot」など多くの人気曲を共作している。また、彼はアメリカに渡って以来ニューヨークのロックシーンをスーパー8ミリで記録、時代を代表するパンクバンドの多くを記録していた。のちに映画『The Blank Generation』として発表した。他にも、パティ・スミスとの共演期間も記録している。1981年にイギー・ポップのバンドに参加、アルバム『Soldier』から共作もしていた。

Dec 15 2019

RoxetteのMarie Fredrikssonが他界

スウェーデンのポップ・デュオ、ロクセットのシンガーだったマリー・フレデリクソンが17年に渡る癌との闘病の後、61歳で他界した。

ロクセットは、スウェーデンに交換留学で行っていたアメリカの学生が、彼らのセカンドアルバム『The Look』をミネソタのラジオDJに渡したところから、スマッシュヒットとなり、アメリカでもこのアルバムがリリースされた。実は、EMIはスウェーデンでの人気からアルバムリリースを検討しつつもリリースを却下したところだった。『The Look』の後3枚のシングルをリリース、全てがアメリカでチャートトップ20にランクインした。その後も更に「It Must Have Been Love」が映画プリティ・ウーマンのサントラに採用されて人気を博し、1990年には「Joyride」が25カ国でナンバーワンヒットとなった。安らかに。

Nov 09 2019

Little FeatのPaul Barrereが他界

リトル・フィートのポール・バレアが71歳、肝臓癌で死去した。彼がリトル・フィートに参加したのはバンド3枚目のアルバム『Dixie Chicken』から、パーカッションのサム・クレイトン、ベーシストのケニー・グラドニーと同時で、以来死の直前までバンドで活躍してきた。バレアとローウェル・ジョージはハリウッド高校からの知り合い。バンドのメンバーオーディションにはベーシストとして参加したが、自らも認める通り、彼はギタリスト向きだった。リトル・フィートでの活動に加え、彼はヴァレリー・カーター、カーリー・シモン、ロバート・パルマーや矢沢永吉らのアルバムにも参加。彼は作詞作曲もこなし、『Time Loves a Hero』アルバムのタイトルトラックや「Down On the Farm」、ファンの一番のお気に入り「Skin It Back」などの曲を作った。安らかに。