ニューヨーク・ドールズのギタリスト兼ソングライターとして知られるリズム・ギタリスト、シルヴァイン・シルヴァインが癌との戦いを終え、他界した。シルヴァインはエジプトのユダヤ系一族の出身。政治的な問題から、彼が10歳の時にパリへ、その後ニューヨークへと移住した。高校卒業後、アパレル業界でふらふらしていたところ、マルカム・マクラーレンと出会う(その後ドールズのマネージメントを短期間だけ担当、その後シルヴァインに彼がマネージメントすることになるセックス・ピストルズに参加しないかと誘った)。ドールズは1973年のデビューアルバムをするなりセンセーションを巻き起こし、クリーム・マガジンの読者による投票で、ベストバンドと最悪バンド両方の1位を獲得した逸話がある。初期のドールズは、内部の不和やジョニー・サンダースとジェリー・ノーランのドラッグ問題などにより、1974年に出した『Too Much Too Soon』を含む2枚のアルバムしか出せなかった。それでも、ニューヨーク・ドールズはグラム・ロック・ムーブメントの代表バンドの1つとして君臨、パンクロックに大きな影響を与えた。ドールズの解散後、シルヴァインはドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンとヨハンセンのソロバンドで活動、1975年にはジェフ・ベックと、日本の後楽園でのライブに新生ニューヨーク・ドールズとして来日公演を行っている(メンバーは刷新後)。
1960年代のイギリスバンド、ジェリー&ザ・ペースメーカーズのジェリー・マースデンが1月3日、他界した。彼のバンドは1963年のデビュー曲「How Do You Do It?」からチャートNo.1ヒットに輝くなど高い人気を誇った。この曲は、ビートルズのプロデュースもしていたジョージ・マーティンが手がけている。彼らもビートルズと同じリバプール出身で、同じようにブライアン・エプスタインのマネージメントを受けていた。デビュー作に続くシングル2枚も「I Like It」「You’ll Never Walk Alone」UKチャートで1位を獲得。アメリカではそこまで振るわなかったものの「Don’t Let The Sun Catch You Crying」でブレークスルー。また、映画『Ferry Cross the Mersey』にもバンドで出演、タイトルトラックも担当し、こちらもヒットとなる。しかし、その絶大なる人気にもかかわらず、1965年後半にはビートルズの影に徐々に押しやられていく。バンドのヒット曲「You’ll Never Walk Alone」はミュージカル『Carousel(邦題:回転木馬)』は、その後長い間人気を博し、リバプール・フットボール・クラブのテーマ曲でもあった。安らかに。
シンガーのジョニー・ナッシュが80歳で他界した。元々は1972年のレゲエ風スマッシュ・ヒット「I Can See Clearly Now」の他にも、彼は数々のレーベルと契約し、他にも多くのレコードでチャートイン、音楽業界の様々な場所で仕事を請負い、レゲエを世界的な音楽として紹介する際大きな役割を担った。
彼が初めてジャマイカを訪ねたのはレコード・プロデューサーとして、ジャマイカでのレコーディングのコストが低いことが魅力だった。しかしナッシュはボブ・マーリー、リタ・マーリー、バニー・ウェイラーやピーター・トッシュのパフォーマンスを見るとすぐに契約を結ぶ。1971年には、ナッシュはマーリーの「Stir It Up」のカバーでイギリスでヒットを飛ばす。1972年のナッシュのイギリスツアーではマーリーが前座として一緒にツアーしている。彼らはそこでアイランド・レコードを率いるクリス・ブラックウェルに出会い、ウェイラーズのデビュー曲「Catch a Fire」を1973年にリリースした。ジョニー・ナッシュ、安らかに
タワー・オブ・パワーのファンは、9月29日に初期メンバーでベーシストのロッコ・プレスティアが69歳で他界したと聞いて悲しみにくれた。死因は明らかにされていないが、ロッコは多くの健康問題をかけていて、2002年に肝移植を受け、2006年に心臓手術を受け、2014年には腎移植も受けていた。ロッコは楽譜を読むことができなかったが、彼のおさえた、ファンキーなフィンガースタイルは、マスター・ドラマーのデイヴィッド・ガリバルディとマッチしてタワー・オブ・パワーのR&B・ファンクサウンドには不可欠で、バンドの人気曲にはほとんど参加していた。1977年に、薬物の過剰摂取からロッコはバンドをクビになったが、1984年にはバンドメンバーから戻って欲しいと要請があり戻ると、健康が許す限りバンドでの演奏を続けた。タワー・オブ・パワーは日本でも長期にわたり人気をほこり、ロッコは日本限定のソロアルバム『Everybody on the Bus』をリリースしていた。安らかに。
テキサスの伝説的なミュージシャン、ロイ・ヘッドが79歳で他界している。ロイは華々しいホーンを多用した初期の大ヒット「Treat Her Right」でよく知られている。初めて彼の曲を聴いて、その深い声と、情熱的な歌い方、ロックなサウンドに、エルヴィス・プレスリーと間違えた人も多かったそうだ。初期のエルヴィスと同じに、ロイの曲も多くはロカビリースタイルを採用していた。「Treat Her Right」はインディ・レーベルからリリースされたが、400万枚を売り上げ、「Gloria」や「Mustang Sally」のようなバーソングの定番となった。ロイはテキサス州サンマルコスをベースに活動したロイと彼のバンド、トレイツは、テキサスでは特に人気で、地元でのヒットも多かった。彼らのライブは荒っぽさで知られていて、ロイは舞台を縦横無尽に踊り回り、気分次第でシミー(体をシェイクする動き)やスライド(舞台を滑っていくステップ)、スプリットや宙返りなどを披露していた。ロイはロスコー・ゴードンのカバー曲「Just A Little Bit」を含むマイナーヒットも多い。1967年には、メンバーが兵役に服すなどの理由でバンドが解散。その後、ロイはカントリーでのレコーディングがふえ、24曲がチャート入りしたが、トップ10には及ばなかった。彼のスタイルがバラバラだったから、本来であれば成功できたところが及ばなかったという人間もいるが、彼のパフォーマンスを見た人間の多くは熱烈なファンとなった。マーク・サンドマンは、モーフィンを結成する前にトリート・ハー・ライトというバンドを組んでいた。ロイの息子、サンダンスはテレビの歌唱コンクールで2回優勝し、モータウンとの契約を勝ち取っている。
ロイ・ヘッド、安らかに眠って欲しい。
スーパーサッカーズでギターを弾き続けていたロン・”ロントローズ”・ヒースマンが他界した。死因は未発表。ヒースマンはバンドの創立メンバーで、1992年にバンドがサブ・ポップと契約し「The Smoke of Hell」をリリースして最初に名前を売る以前から所属していた。このバンドはパンクとハードロックのミックスサウンドで知られていて、彼のエネルギッシュなギターパフォーマンスは多くのファンを集めた。ヒースマンは1997年に一度バンドを離れたものの、1997年のアルバム「Must Been High」でカムバック。この時バンドの方向性がカウパンクと呼ばれる方に転換した。他にも、彼らのサウンドはティン・リジーとジョニー・キャッシュを合体させたようだとも言われている。バンド自体ではメジャーヒットはなかったが、彼らのライブは常に人気で多くの献身的なファンがいる。ロンはその後、2009年にバンドを離れ、コーヒーの勉強をして自分のショップを開いていた。 安らかに。
プラインは1972年のデビュー以来、強い人気を誇り、彼の世代では最高のソングライターと呼ばれつつも、チャートインするヒットを出したことはなかった。彼のキャリアは非常にユニークなルートを辿っている。14歳でギターを始めた後、軍隊に所属し、ドイツでメカニックとして働き、その後シカゴで郵便局員となり、そこでオープン・マイク(飛び入りスタイル)のライブに参加していた。彼を最初に発見し、メジャーなレコーディングをさせたのは、高名な映画評論家のロジャー・エバートが、映画館の後にフラッと立ち寄ったバーでプラインの演奏を見て、映画よりもプラインのことについて書いたのがきっかけだった。クリス・クリストファーソンは初期からのファンで、ニューヨーク市でのライブの前座としてプラインを起用。その場でレコード会社重役のジェリー・ウェクスラーに見出され、翌日にはアトランティック・レコードで契約に至る。プラインのサウンドは、どちらかというとロックというよりフォークだが、FMラジオにたびたび取り上げられる。彼はその意味深く、素朴で、ユーモラスな歌詞からマーク・トゥウェインやボブ・ディランと並び称されることが多い。実際、ボブ・ディランも初期からのプライン・ファンだ。ジョニー・キャッシュも同じく初期からのファンで、プラインの曲のカバーを何度もレコーディングしている。多くの歌手が彼の曲をカバーしていて、まだゲイの発展場でバリー・マニローをピアノに歌っていたベット・ミドラーや、モーターサイクル・ギャング(アメリカ式暴走族)のメンバーで刑務所にも服役した、アウトロー・カントリー歌手のデイヴィッド・アラン・コーなど。ロジャー・ウォーターズは最初ファンだったが友人となり「Hello In There」のコピーを何度もライブで披露している(彼はプラインの「Sam Stone」の部分部分を、ピンクフロイドの「The Post War Dream」に使ったりもしている)。ボニー・レイットは「Angel From Montgomery」を録音した30人以上の歌手のうちの1人で、レイットバージョンは大人気となった。プラインのアルバムは、流行を追うことなかったため大きく売れなくとも、着実に販売実績を重ねた。それぞれのアルバムにきちんと良い歌が録音されていた。ファンの間でも、ブルーグラス・サウンドの強い2枚目のアルバム『Dioamonds in the Rough』と6枚目のロカビリー風アルバム『Pink Cadillac』は混同されることが多い。プラインはメジャー・レーベル・システムと合わず、1981年には自分のレーベル、オー・ボーイ!を立ち上げた。その後、共作を始め、ボビー・ブラドック、ダン・ペン、スプーナー・オールダム、ドニー・フリッツ、ブラック・キーズのダン・オーバック、シェル・シルヴァーステインやボビー・ウィットロックらとコラボした。2016年に彼はトップの女性カントリーシンガーらとデュエットアルバム『For Better, or Worse』を制作。2018年のアルバム『The Tree of Forgiveness』は、セールスとしては15万枚とそこそこの売り上げだったにもかかわらず、ビルボードチャート5位になった。2020年にはグラミーの特別厚労賞生涯業績賞を受賞。彼の死後、彼の曲の多くが北米アップル・チャートにランクインした。彼がアイリス・ディメントとデュエットした「In Spite of Ourselves」が一番人気のようだ。
ジャズ・トランペットのウォレス・ルーニーもコロナウイルスにより59歳で死去した。彼はクラーク・テリー、ディジー・ガレスピーやマイルス・デイビスに学び、デイビスの弟子でもあった。彼は4歳で完璧な音感を持っている事がわかり、すぐ音楽の勉強を始めた。15歳でプロとしての最初のレコーディングを行い、16歳でシダー・ウォルトンのバンドに参加する。トニー・ウィリアムズやアート・バークレーらとの共演を経て名前を知られるようになり、引っ張りだことなった。彼個人の名義で、ミューズ、コンコード、ワーナー・ブラザーズなど多くのレーベルからアルバムも発売している。1994年、アルバム『A Tribute to Miles』に参加した事でグラミー賞を受賞した。
先週、コロナウイルスで陽性が出ていたパワー・ポップ・グループ、ファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーが享年52歳で逝去した。彼は2003年の大ヒットソング「Stacy’s Mom」のファウンテンズ・オブ・ウェインのメンバーとして最もよく知られてはいたが、ソロプロジェクトでもエミー賞、グラミー賞を獲得、トニー賞やゴールデン・グローブ賞にもノミネートされた。彼がトム・ハンクスの映画『That Thing You Do!』の劇中バンド、ワンダーズの曲として書いた映画のタイトルソングはさらに知られているかもしれない。アダムの友人、マイク・ヴィオラが歌っている。また、彼はゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツやモンキーズら、数々のアーティストのプロデュースも手掛けていた。彼の書いた曲は、ジョナス・ブラザーズや、ケイティ・ペリー、アメリカ・ボーリング・フォー・スープ、クリック・ファイブらに歌われている。
その後、彼はロンドンに移住し、ギタリストのジェイク・フッカーやドラマーのポール・バーリーとアローズを結成。プロデューサーに著名なミッキー・モースト(アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・ヤードバーズを手掛ける)を迎えた。彼らはUKで、ヒットメーカーの作曲家デュオ、チャップマン・チンが作り、トップ10となった「Touch Too Much」を数えると、3度チャート入りヒットを飛ばしている。この曲はのちにローマン・ホリディ、ヘローやロンドン・カウボーイズらがカバー。しかし、彼の人生で最大のヒットとなったのは、彼とフッカーが共著したB面用の曲、「I Love Rock’n’Roll」だった。ジョアン・ジェットはアローズがこの曲を演奏するのを、1976年、ランナウェイズとのツアー中にテレビで見た。彼女は1981年にこの曲をソロシングルとして発表し、全米チャート1位に7週に渡り輝くことになった。2002年にはブリトニー・スピアーズがバージョン違いで録音し、2011年にはラルク・アン・シエルが別のバージョンをカバーしてペプシのCMに起用された。スーパーフライは、2015年にカバーを発売したが、その時のギタリストはアーロンだった。ウィアード・アル・ヤンコヴィックはパロディ・バージョンを録音、タイトルも「I Love Rocky Road」に変えた。ジョアン・ジェットのバージョンは、繰り返し様々な映画に起用されている。
ジャズピアニストのマッコイ・タイナーが81歳で逝去。タイナーはマイルストーンやブルーノートから多くのアルバムを発表し、フレディ・ハバードやジョー・ヘンダーソン、ウェイン・ショーターらビッグネームともレコードを発表。さらに、ジョン・コルトレーンのバンドの支柱としてマスターピースと呼ばれる「A Love Supreme」をレコーディングしたことで非常に名高かった。
チェコ生まれのアメリカ人ミュージシャン/ソングライター/映画製作者のアイヴァン・クラールが71歳で他界した。アイヴァンはニューヨークのグラム・ロックバンド、ルーガーでキャリアをスタート。その後短期間ショーン・キャシディのバンドやブロンディとの共演を経て、ベーシストとしてパティ・スミス・グループのオリジナルメンバーとなった。最初の5枚のアルバムに出演、「Ask The Angels」「Ain’t It Strange」「Pumping (My Heart)」や「Dancing Barefoot」など多くの人気曲を共作している。また、彼はアメリカに渡って以来ニューヨークのロックシーンをスーパー8ミリで記録、時代を代表するパンクバンドの多くを記録していた。のちに映画『The Blank Generation』として発表した。他にも、パティ・スミスとの共演期間も記録している。1981年にイギー・ポップのバンドに参加、アルバム『Soldier』から共作もしていた。
ロクセットは、スウェーデンに交換留学で行っていたアメリカの学生が、彼らのセカンドアルバム『The Look』をミネソタのラジオDJに渡したところから、スマッシュヒットとなり、アメリカでもこのアルバムがリリースされた。実は、EMIはスウェーデンでの人気からアルバムリリースを検討しつつもリリースを却下したところだった。『The Look』の後3枚のシングルをリリース、全てがアメリカでチャートトップ20にランクインした。その後も更に「It Must Have Been Love」が映画プリティ・ウーマンのサントラに採用されて人気を博し、1990年には「Joyride」が25カ国でナンバーワンヒットとなった。安らかに。
リトル・フィートのポール・バレアが71歳、肝臓癌で死去した。彼がリトル・フィートに参加したのはバンド3枚目のアルバム『Dixie Chicken』から、パーカッションのサム・クレイトン、ベーシストのケニー・グラドニーと同時で、以来死の直前までバンドで活躍してきた。バレアとローウェル・ジョージはハリウッド高校からの知り合い。バンドのメンバーオーディションにはベーシストとして参加したが、自らも認める通り、彼はギタリスト向きだった。リトル・フィートでの活動に加え、彼はヴァレリー・カーター、カーリー・シモン、ロバート・パルマーや矢沢永吉らのアルバムにも参加。彼は作詞作曲もこなし、『Time Loves a Hero』アルバムのタイトルトラックや「Down On the Farm」、ファンの一番のお気に入り「Skin It Back」などの曲を作った。安らかに。
カーズのボーカリスト/作曲家/プロデューサーだったリック・オケイセックが、ニューヨーク市の自宅で他界した。心臓病だった。カーズは1978年にバンド名を冠したアルバムでデビュー、ニューウェーブの旗手として活躍した。オケイセックは当時のボーカリストらしくないボーカルで、ハンサムというよりはオタクっぽい印象だったが、不思議なカリスマがあり、どこか超然とした、無表情なスタイルを貫いた。彼は影響を受けたアーティストとしてバディ・ホリーをあげている。カーズは「Just What I Need」を始めとしたきっちりと磨き上げられたポップ・スタイルでラジオ電波を独占した。バンドとしては5枚のスタジオ・アルバムを発表し、最初の4枚がマルチ・プラチナアルバムになる。カーズ解散後、オケイセックはウィーザー、ナダ・サーフ、バッド・ブレインズ、スイサイド、ロメオ・ヴォイド、バッド・リリジョン、ビリー・コーガンやジョナサン・リッチマンらのプロデュースを手がけた。
彼は不合理で、一貫性がなく、信頼できないことも多かったが、カルト的な人気を博した。1993年、レコード・エクスチェンジというレコード店が彼に壁画の制作を依頼。彼が「ジェレマイヤ・ザ ・イノセント」と名付けた、「Hi How Are You?」と吹き出しのついたカエルの壁画はオースティンの観光名所にもなっている。カート・コヴァーンはローリング・ストーンのカバーにもなったバージョンのTシャツをよく着用した。ジョンストンの驚くべき人生を綴ったドキュメンタリー「The Devil and Daniel Johnston」は2005年に制作されている。
今週は悲しい自殺のニュースがある。大人気のシンガー、ソングライター、兼ギタリストのニール・カザルが他界した。彼はニュージャージー州に生まれ育ったが、1988年から1993年の間南部ロックバンドのブラックフットのギタリストとしての活動で名を売った。ブラックフット後、彼は数々のソロアルバムをインディーズのファーゴ・レーベルからリリース。日本のインディーズレーベル、ゴティーもカザルのアルバム『No Wish to Reminisce』『Roots and Wings』『Sweeten the Distance』をリリースし、日本公演もアレンジした。カザルはソロのライブで日本人ミュージシャンを起用することがあり、キーボード奏者の良原リエ(ステージネームTric0!)もその1人だ。彼はまた多くのバンドで演奏、ヘイジー・マラズ、ビーチウッド・スパークス、ロバート・ランドルフ、ライアン・アダムスや彼の家族、クリス・ロビンソン・ブラザーフッドらと共演している。彼の曲「Dandelion Wine」はオルタナ・カントリーバンドのレイルロード・アースが録音。カザルは他にもウィリー・ネルソン、フィル・レッシュらとコラボ、またグレイトフル・デッドの要請でライブのインターミッション用の曲を提供したが、あまりにも人気になりサークル・アラウンド・ザ・サンという名義でリリースしたりもしていた。安らかに。
偉大なソングライターのドニー・フリッツが76歳で心臓手術中の合併症により他界した。フリッツは長期間に渡り成功を納めたミュージシャンで、主にソングライターとして活動、他にもセッション・プレイヤー、サイドマンとしても、特にクリス・クリストファーソンのキーボード奏者として活躍した。アラバマをベースに活躍した彼は、多分レイ・チャールズ、ローリング・ストーンズ、ティナ・ターナーやウェイロン・ジェニングスが歌った「We Had It All」、ダスティ・スプリングフィールド、UB40&クリッシー・ハインドが録音した「Breakfast In Bed」、ダン・ペンと共作でアーサー・アレクサンダー、ジョン・バエズ、パーシー・スレッジ他多くが歌った「Rainbow Road」、同じくダン・ペンとの共作でイルマ・トーマスが歌った「Choo Choo Train」、この曲はエディ・ヒントンとの共作で1968年にボックストップスのトップ40ヒットにラインクインし、さらに近年タランティーノ監督の新作「One Upon a Time In Hollywood」に使用された。彼の時々共作者のペンと同じく、フリッツの曲は多くの場合R&B、カントリー、たまにポップスのシンガーにより愛された。安らかに。
著名なベーシストのラリー・ザ・モール・タイラーが77歳で死去した。彼は画期的なブルース・ロック・バンド、キャンド・ヒートのメンバーとして1番知られていた。キャンド・ヒートは数々のヒットと、「Going Up the Contry」や「On The Road Again」などの国際的なスマッシュヒットを飛ばし、モンタレー・ポップ・フェスティバルやウッドストックにも参加していた。
ニューオリンズの高貴なる音楽ファミリー、ネヴィル一家の1人、偉大なるアート・ネヴィルが81歳で多くの健康障害で苦しんだ後、他界した。アートは兄弟の1番上で、若い時から弟のチャールズ、アーロン、シリルと共に音楽業界で活動してきた。チャールズは50年代のスター、ラリー・ウィリアムズのためにサックスを吹いていたが、ヘロインへの依存と、薬を買うための万引きの為に収監され、皮肉なことに監獄でニューオリンズの伝説的なピアニストジェームズ・ブッカーと共演することになる。出所後、彼はニューヨーク市へ移住し、数々のR&Bのスターのサイドマンとして活躍し、ジャズも嗜んだ。シリルとアートも多くのバンドのサイドマンとして活躍、アートはニューオリンズのスタンダード・ナンバーとなった「Cissy Strut」などの曲でチャートで成功したファンク・バンドのミーターズに参加。アーロンは幸いにもゴージャスな声に恵まれ、1960年には「Tell It Like It Is」で大ヒットを飛ばした。ミーターズとネヴィル兄弟は1976年に叔父のジョージ・ランドリー(別名ビッグ・チーフ・ジョリー。ネヴィル一族は黒人として育ったが、白人やチョクトー・インディアンの血も入っていた)の下で合流した。その結果、1976年に出したアルバム『The Wild Tchoupitoulas』はカルト的な成功を博したが、大きなヒットとはならず終わった。ネヴィル・ブラザーズはその後バンドとして活動を始め、1978年にデビューアルバムを発売。大きなインパクトを残したのは2枚目のアルバム、ジョエル・ドーンがプロデュースした『Fiyo on the Bayou』だった。彼らのアルバムは大体そこそこの結果を残しているが、他に名作と呼ばれるのはダニエル・ラノワがプロデュースした1989年の『Yellow Moon』だろう。2004年に最後のアルバムを録音した後も、彼らには世界中にライブを待ちこがれるファンがいた(2009年のフジロックでも素晴らしかった)が、その間メンバーはミーターズの再結成を含むサイド・プロジェクトも行なっていた。アートはリー・ドーシー、ポール・マッカートニー、ドクター・ジョン、ラベル、ロバート・パーマーなどの偉大なアーティストとも共演している。チャールズは昨年他界。アートの息子、イアンはアーロンの息子で、キース・リチャーズバンドで演奏していたイヴァンが率いるファンクバンド、ダムスタファンク(最近ニューオリンズのローリングストーンズ・ライブ前座を務めた)でギターを弾いている。
クイックシルバー・メッセンジャー・サービスのギタリスト、ゲイリー・ダンカンが72歳で他界した。本名ゲイリー・グラッブ、10代の頃所属していたバンドラッズでそれなりに成功し、北カリフォルニアのライブでバーズやローリング・ストーンズの前座を務めた。次のバンド、ブローグスで、クイックシルバーが1965年に活動開始した際参加したドラマーのグレッグ・エルモアと出会う。クイックシルバーはサンフランシスコのサイケデリックバンドのはしりで、ゲイリーとジョン・シポリーナのギタープレイの掛け合いでよく知られていた。最盛期にはこのバンドはヒッピーのテーマソングだった「Get Together」を作ったことで知られるジーノ・ヴァレンティ、ジェファーソン・エアプレーンのベーシストになったデヴィッド・フレイバーグや著名なキーボーディストのニッキー・ホプキンスも所属していた。このバンドは非常に数奇なキャリアを辿った。大きなヒット曲は「Fresh Air」1曲だけ、それもチャート49位まで、しかしカリフォルニアでは不動の人気を誇った。チャートでのヒットこそ無かったものの、彼らのアルバムはビルボードで30位まで行ったものが4枚、他にもトップ200に食い込んだものが4枚。曲から曲へのリード・ヴォーカルは変わった。ダンカン、シポリーナ、フレイバーグとヴァレンティはそれぞれ1アルバムずつバンドを辞め、その後復帰。多くのメンバーは大麻所持で逮捕され、収監されている間バンド活動を休んでいた。クイックシルバーの最も成功した1969年のアルバム『Happy Trails』はゴールドアルバムとなり、ボー・ディドリーの曲『Who Do You Love?』では伝説的なギタージャムを披露した。バンドは2006年から2010年の間、生き残ったメンバー、ダンカンとフレイバーグにより再結成もした。ゲイリー・ダンカン、安らかに。
R.I.P. | Naoko | Comments Off on Quicksilver Messenger ServiceのGary Duncanが他界
彼は1890年代のティン・パン・アレー音楽や、早期のジャズやブルースなど昔からの音楽を好んだ。本名はディクラン・ゴバリアン、キプロス生まれのアメリカ系だったが、60年代中頃にカナダに移住した頃レオン・レッドボーンと改名。彼は自分の音楽にそのさりげないユーモアのセンスを混ぜ込み、自分について大ボラな話を作り続けた。ボブ・ディランは1972年のフォーク・フェスティバルで彼の演奏を見て、ローリング・ストーンズ誌のインタビューで高く評価した。レオンは1975年にワーナーから『On the Track』でレコード・デビュー。彼の流行とは関係ないが非常に素晴らしい音楽がラジオではなかなか流されなかった中で、テレビ番組への出演により非常に人気だった。彼の演奏時のスタイルはヒゲにサングラス、パナマ帽というものだったため、正確な年齢がわからず、実際の彼が20代だった頃、多くの観客は彼の年齢を50代から60代と間違えていたという。彼のアルバムのカバーは彼を描いた絵か漫画のカエルだったが、写真は使われなかった。彼はフランク・ザッパの別名義だというものもいた。彼の深い声やユーモアのセンスはアニメ映画の声優としても人気で、ウィル・ファレルの映画「エルフ」でも彼は有名になった。彼の曲の多くは非常にわかりにくいカバー曲で、ほとんどどの曲が何のコピーでどの曲がオリジナルか分からないくらいだった。彼は大ヒット曲というものには恵まれなかったが、アルバムは堅実な売り上げを誇理、レッド・ストライプスのジャック・ホワイトが彼の作品のリイシュー盤を制作するほどだった。