Category: R.I.P.

Dec 08 2018

BuzzcocksのPete Shelleyが他界

ブリティッシュ・パンクバンドのバズコックスに所属していたピート・シェリーが63歳で他界、心臓発作だという。セックス・ピストルズに影響されたこのバンドは1976年にボルトンで結成され、自分のレーベルを立ち上げた最初のパンクバンドだ。メジャーレーベルからのデビューシングル「Orgasm Addict」はヒットはしなかったもののカルト的な人気を博している。この後にリリースした「What Do I Get」はトップ50にランクイン、「Ever Fallen In Love (With Someone You Shouldn’t)」は12位になった。バズコックスが1981年に解散すると、シェリーはソロ活動を続ける。よりエレクトロニックなサウンドに近づいてから発表した「Homosapien」は彼のバイセクシュアリティについて言及し、注目された。アメリカではチャートにランクインしたものの、BBCでは放映禁止となった。安らかに。

Oct 05 2018

Jefferson AirplaneのMarty Balinが死亡

ジェファーソン・エアプレーンの共同創立者だったマーティ・バリンが76歳で死亡した。もう一人の創立者、ポール・カントナーもすでに他界している。ジェファーソン・エアプレーンとジェファーソン・スターシップのために多くのヒットを作り歌ってきたマーティ(本名マーティン・ジェラル・バックワルド)はソロでも活躍してきた。サンフランシスコのサウンド音楽ブームの元に位置し、ハイト−アッシュベリー地区に住んで1965年8月にマトリックス・ナイトクラブを始めた。バリンは「Comin’ Back To Me」「Today」「Plastic Fantastic Lover」「Volunteers」や「Miracles」など多くのヒットを一人でまたは共同で作曲し、グレース・スリックと共同でリード・ヴォーカルを務めてきた。マーティはカントナーやエアプレーンとは離れたり参加したりを繰り返しているが、彼らがエアプレーンやスターシップで共に作り上げた音楽は未だ高い人気を博し、世界中に影響を広げている。マーティ・バリン、安らかに。

Oct 05 2018

ブルース・ギターの偉人Otis Rushが他界

ブルース・ギターの偉人、オーティス・ラッシュが84歳で他界した。2003年に脳卒中の発作を起こして以来、ほぼ仕事をしていなかった。ミュージシャンになる前、ラッシュは農夫兼トラック運転手として働いていた。BBキングのライブに衝撃を受け自分でギターを演奏することを覚えたが、右利き用のギターを左利きで弾いていた為上下左右を逆に弾いていた。ラッシュは強烈なプレイスタイルと暗い雰囲気で知られている。彼の作った曲はブルースのスタンダードになったものが多く、他のバンドにもカバーされている。彼のデビューシングル「I Can’t Quit You Baby」はレッド・ツェッペリンの最初のアルバムでカバーされている。「Double Trouble」はポール・バターフィールド・ブルース・バンド、ジョン・メイオール、エリック・クラプトンにカバーされ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンのバンド名にもなっている。「All Your Love」は多くのメジャーなアーティストにカバーされ、ピーター・グリーンの「Black Magic Woman」(サンタナのヒットにもなっている)の基となった。彼のひねくれたラブソング「Violent Love」はパンクやジャズを含んだ多くのアーティストにカバーされている。彼の「Homework」はJ.ガイルズの名作『Full House』にも登場している。ラッシュは日本と不思議で特別な関係を築き、何度も来日している。彼がキャピトルで録音したアルバム『Right Place, Wrong Time』は結局リリースされなかった。彼は録音されたアルバムを自分で買い取り、P-Vineからリリースしたが、現在それが彼のベストアルバムの一つと言われている。オーティス・ラッシュはP-Vineから多くのアルバムをリリースしている。彼は妻のマサキと8人の子供、多くの孫と暮らしていた。

Sep 09 2018

ジャズピアニストのランディ・ワトソン他界

尊敬されるジャズピアニストのランディ・ワトソンが92歳で他界した。死因は未だ不明。ワトソンはアーティストであり教育者、そして永遠の求道者でもあった。彼はそのキャリアを通じてブルースやジャズのアフリカのルーツを調査し続けた。また、多くの大学で教鞭を取った。デューク・エリントンやセロニアス・モンクに強く影響を受け、自作の曲に加えて二人のためのトリビュート・アルバムも録音している。1973年には『Tanjah』で、1995年には『The Splendid Master Gnawa Musicians or Morocco』でグラミー賞を受賞した。

Aug 26 2018

Lynyrd SkynyrdのEd Kingが癌で他界

レーナード・スキナードのソングライター兼ギタリスト、エド・キングは癌と闘病の末、68歳で他界した。

ミュージシャンとしてのキャリアを開始した当初、キングは1967年に「Incense and Pepermints」というヒットソングを飛ばしたストロベリー・アラーム・クロックというサイケデリック・ポップ・バンドに所属していた。その後、彼はストロベリー・アラーム・クロックの前座で登場した新進バンド、レーナード・スキナードと出会う。スキナードのベーシスト、レオン・ウィルクソンが1972年に短期間バンドを抜けた際キングはスキナードに誘われ、ウィルクソンは戻ってギターに転向、スキナードの象徴だったトリプル・ギター・アタック・サウンドが完成した。キングは最初の3枚のアルバム制作の間バンドに在籍。「Sweet Home Alabama」「Workin’ for MCA」や「Saturday Night Special」などのヒットを共作。しかし、1976年にスキナードのめちゃくちゃなツアースタイルに疲弊してバンドから離脱、替わりにスティーブ・ゲインズが参加したが、ゲインズはヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントと1977年10月20日の悲劇的な飛行機事故で亡くなっている。スキナードが1987年に再結成した際はキングも参加し、1996年に心臓のトラブルで離脱(その後2011年に移植手術を受けた)するまで行動を共にした。

 

Aug 21 2018

スーパースターAretha Franklin、逝去

18個のグラミー賞を受賞した歌うスーパースター、アレサ・フランクリンが、76歳で癌との戦いの後、他界した。アレサはメンフィス生まれで、主に’歌う牧師’として有名だった父親C.L.フランクリンに育てられた。彼の友人にはマーティン・ルーサー・キング、サム・クック、ジャッキー・ウィルソン、メイヴィス・ステイプルスや、マヘリア・ジャクソンがいる。子供の頃のアレサは教会で歌っていて、その頃すでにキリスト教レーベルからアルバムを1枚出している。1960年、父親がマネージメントをしていた時に彼女はコロムビアと契約、続けざまに宗教とは関係のないジャズ、ブルース、R&Bテイストのアルバムをリリースしたが、6年の間大した成果がなかった。1966年に彼女はアトランティックと契約、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーがアラバマ州のマッスル・ショールズで録音を担当。より煌びやかで男らしいサウンドに支えられ、彼女はトレードマークのゴスペルの影響があるR&Bサウンドを獲得し「I Never Loved a Man(The Way I Loved You)」「Baby I Love You」「Chain of Fools」「Think」、そしてもっとも著名な「Respect」など、数々のヒットを飛ばすようになる。これらの曲はオーティス・レディングが作ったものをアレサが編曲し、歌詞も少し変えて、タイトルを一文字ずつ歌ったコーラスを入れ、賛美歌のようにしたものだ。プロデューサーのウェクスラーがアトランティックを去ると彼女のヒットは減り、1980年には社長のクライヴ・デイヴィスの強い希望によりアリスタと契約。この時点で彼女のキャリアは映画『ブルース・ブラザーズ』に出演したことから上向きになっていた。アリスタからの2枚目のアルバム『Who’s Zoomin’ Who?』で彼女はチャートのトップ40に返り咲き、これはプラチナアルバムとなる。彼女はジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマの3人の大統領就任式で歌い、マーティン・ルーサー・キングの葬式でも歌っている。しかし、彼女の人生はおとぎ話のような幸せなものではなかった。彼女の両親は幼い頃に別居し、母は10歳の頃に亡くなった。彼女が最初に出産したのは12歳の時で、その後4人の息子を持つが、父親は全て違い、結婚はその内の1人としかしていない。彼女は家庭内暴力の被害者で、男たちにはキャリアの邪魔もされている。また、彼女は飛行機に対する恐怖症を発症し、ツアー活動にも影響が出た。アレサは体重を維持することができず、太ったり痩せたりを繰り返していた。喫煙と飲酒の問題もあった。彼女は公民権運動にも関わり、公表せずに彼女の信じる運動をする団体に寄付もしている。2011年から彼女の伝記映画も企画され、ジェニファー・ハドソンがアレサ役として抜擢されている。アレサへのトリビュート・ライブが11月14日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで企画されている。

世界に一人の「ソウルの女王」、安らかに。

Jul 17 2018

Theryl “Houseman” DeClouetが他界

セリル・”ハウスマン”・デクロウが、何年かの闘病生活の後66歳で他界した。一般にはファンクバンド、ギャラクティックのオリジナルのボーカリストだったことで良く知られているが、彼はニューオリンズでは有名人で、インディーレーベルでソロアルバムを録音しつつ俳優としても活動していた。10年間参加した後に2004年、糖尿病が悪化したことからギャラクティックのツアースケジュールについていけなくなりバンドを脱退したが、スペシャルなイベントなどでは参加もしていた。彼の脱退後、ギャラクティックは様々なシンガーを使っていて、最も最近のボーカリストはエリカ・フォールズだった。

ハウスマンはギャラクティックに参加する前はザ・リリックスや日本でカルト的な人気を博したホリーグローヴの『New Orleans Best Kept Secret』にも参加している。その後彼はパーカッショニストのマイケル・ワードとニューオリンズ・スタイルのファンクバンドリワードを結成、日本にもツアーで訪れていた。ギャラクティックのバンドメイトになるグループとは現在ニューオリンズで最も有名なファンク・ライブハウス、べニーズ・ブルー・バーでリワードとしてのライブで出会った。当時彼らのほとんどは大学生だったという。ハウスマンの遺作になる最新アルバムは『The Truth Iz Out』で、ニューオリンズのスター、イヴァン・ネヴィルやジューン・ヤマグチなどがゲスト参加している。

Jul 12 2018

Tab Hunterが86歳で他界

俳優、プロデューサー、テレビ司会者として活躍したタブ・ハンターが86歳で他界した。本名アーサー・ケルムというこのハンサムな金髪男は、非凡で成功に満ちたキャリアを築いた。

彼は年齢を詐称して10代前半で軍に入隊。実際の年齢が明るみに出て除隊となる。その後、彼が非常にハンサムで、映画を見るのが大好きだったことから友人に演劇を薦められた。兵隊役を演じた1955年の『Battle Cry(邦題:愛欲と戦場)』が彼の成功作となる。その後、ワーナー・ブラザーズと独占契約を結び、数々の人気映画に出演した。1957年にはパラマウント所有のレコード会社ドット・レコードから「Young Love」をリリースし、チャート1位を6週間の間独占、国際市場でも人気を博した。しかし、タブの人気を作ったのは自分達だと思っていたワーナーの創設者ジャック・ワーナーを怒らせる。このことにより、ワーナーはワーナー・ブラザーズ・レコードを設立、タブ・ハンターの作品すべての権利を管理、業界でも大手にのしあがった。1960年代の後半にハンターはフランスに移住、映画制作のペースも落としたが、人気はそのまま。ドラアグ・クイーンのディヴァインと一緒に制作したキッチュでスマートな『Polyester』でさらに人気を高めた。また、『Greece 2』では歌う役もこなしている。2007年に彼は自伝を発表、ベストセラーとなる。この本の中で彼はゲイであることをカミングアウトし、今まで噂されていたことを肯定、長期にわたるボーイフレンドがいると発表した。

May 09 2018

Charles Neville、癌で他界

サックス奏者のチャールズ・ネヴィルが膵癌の為79歳でこの世を去った。チャールズは1956年から1958年の間海軍に参加、メンフィスに駐屯中、後に一緒に長期ツアーをすることになるBBキングとボビー・”ブルー”・ブランドに出会う。チャールズはその後、ラリー・ウィリアムズのニューオリンズのバンドに参加。ウィリアムズはハードな麻薬、窃盗や女衒などと関係が深かったが、それでもビートルズやストーンズにカバーされるようなヒット曲を作っていた。1963年にチャールズ・ネヴィルはマリファナのジョイントを2本所有していた罪で3年間収監される。刑務所で服役中、熱心に音楽の勉強をし、ジェームズ・ブッカーやジェームズ・ブラックなど、他の収監されていたミュージシャンたちと演奏した。刑務所を出た後、ジョニー・テイラーやクラランス・カーター等と演奏し、1977年にはネヴィル・ブラザーズ・バンドを結成。兄弟のアーロン(ヴォーカル)、アート(キーボード。彼はそれ以前にミーターズというバンドの共同創設者だった)、シリル(パーカッション)とのバンドだった。ネヴィル・ブラザーズはそこそこの人気があったが、チャートでの大ヒットは無い。しかし、他のミュージシャンからは生粋のニューオリンズ音楽一族として有名。チャールズの娘、シャーメイン・ネヴィルも評価の高い歌手で、彼女のデビュー曲「It’s About Time」は日本でも人気だった。アーロンの息子、イヴァンはキーボード奏者で、人気のファンクバンド、ダムスタファンクを率いてアートの曲を歌い、このバンドでは従兄弟のイアンがギターを弾いている。

Mar 29 2018

Bill Hersey 87歳で他界

長年に渡りエンターテイメントの立役者だったビル・ハーシーが87歳で他界した。彼は1962年、貨物船に乗って初めて日本の地を踏んだ。当初は英語教師をしていたが、徐々にビルボード誌やハリウッド・リポーター誌を含む数々の日本やアメリカの雑誌に寄稿するようになる。日本の外国人界隈では、彼はウィークエンダーという英字新聞の社交欄の担当者としてよく知られている。彼はウィークエンダーに40年に渡って書き続けている。また、ビルは非常に社交的で、あらゆる職業の人々と友人関係にあったが、特に映画、音楽、旅行、ファッションや外交の世界に詳しかった。また、数々の会社のためにPRの仕事を請け負い、六本木のナイトクラブ、レキシントン・クイーンのプロモーションを手がけ、1980年以降の国内外の人気と、セレブスポットとしての位置を確立した。多くの友人だったビル・ハーシー、安らかに。

Mar 23 2018

訃報:マット・ダイク

プロデューサーでDJのマット・ダイクが55歳にて死去。ダイクはデリシャス・ヴァイナルを友人のマイク・ロスと共同で設立し、1980年代、トーン・ロックの「Wild Thing」やヤング・MCの「Bust a Move」などがヒットになり成功を掴む。この成功からマットはビースティ・ボーイズのアルバム『Paul’s Boutique』の制作に参加、アルバムの一部を自分のマンションで録音している。このサンプルを多用したアルバムはヒップホップの古典として知られるようになり、ダブル・プラチナアルバムとなる。その後、彼は音楽から身を引き、ドラッグに溺れるようになる。ダイクは1月に死亡していたそうだが、その死はつい最近まで公表されなかった。死因は明らかにされていない。

Mar 11 2018

タワーレコード創設者、Russ Solomon他界

タワーレコードの創設者でCEOのラス・ソロモンが、妻のパティとウイスキーを飲みつつオスカーの授章式を見ながら92歳で死去した。ソロモンは音楽を愛する高校中退者で、自分の育った故郷サクラメントにタワーレコードを創設した。ソロモンが生まれたサンフランシスコに1968年に開店した3店舗目が大成功したのは、サンフランシスコのロックシーンがグレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレーンやサンタナ他、多くのアーティストにより爆発的な盛り上がりを見せたタイミングも大きかった。彼のコンセプトである音楽のスーパーマーケットは、1970年ロサンゼルスのサンセット・ストリップで開店した時に更なる発展を見せる。タワーの日本1号店は1980年札幌で開店、同時にアメリカ東海岸のニューヨーク市でも店を開いている。タワーレコードはその頂点において、18ヶ国に店舗を持ち、10億円以上の売り上げを誇っていた。成功の翳りの理由は手を広げすぎた事で、同時に巨大企業がCDを安価に売り出したり、ナップスターのような業者が違法な無料ダウンロードなどを開始したことも理由に挙げられるだろう。2002年にはタワーの日本法人を売却。現金注入するも結局2006年には破産を申告する。ソロモンは音楽業界の象徴とも言える人物で、カジュアルで楽しいことが好きな、フレンドリーなスタイルでよく知られ、従業員(25年間タワーレコードに在籍した筆者も含む)や、音楽業界、音楽を愛する多くの人々に愛されていた。2015年にはソロモンとタワーのエピソードがコリン・ハンクスによってドキュメンタリー映画にもなっている。彼の偉業はニューヨーク・タイムズ、ワシントンポスト、ローリング・ストーン、CNNなど世界中のメディアでストーリーになっている。

愛と敬意と共に、ラス・ソロモンの心よりの冥福を祈る。

Feb 06 2018

ドラム名人のLeon “Ndugu” Chancler死去

ドラム名人と呼ばれたレオン・”ンドゥグ”・チャンクラーが65歳で死亡した。

ルイジアナ州のシュリーヴポート生まれのチャンクラーはラテン・ジャズのウィリー・ボボと高校生の時に演奏を始めている。後に彼はハービー・ハンコックやマイルス・デイヴィス、ボビー・ハッチャーソン等偉大なプレイヤーと共演し、ウェザー・リポートの「Tale Spinnin’」にも参加している。セッション・プレイヤーとしての彼はポップのレコードにも参加していて、もっとも有名なのはマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」だ。また、DAZZバンドの1番のヒットだった「Let It Whip」を共作し、南カリフォルニア大学では教鞭も取っていた。

Feb 06 2018

Temptations のDennis Edwardsが他界

1968年にテンプテーションズに加入し「I Can’t Get Next to You」「Ball of Confusion」や「Psychedelic Shack」、「Papa Was a Rollin’ Stone」など多くのヒット曲のヴォーカリストだったデニース・エドワーズが74歳で他界した。死因は明らかにされていない。

エドワーズは、テンプテーションズに最初のヴォーカルだったデイヴィッド・ラフィンがクビになった後加入。彼はラフィンに比べるとザラついた歌唱スタイルで、また歌詞に社会的な問題意識を持ち込んだ。テンプテーションズはモータウンを1976年に脱退し、エドワーズはその後すぐバンドを離れたが、80年代に再度参加した。エドワーズはソロで「Don’t Look Any Further」という小ヒットを出しているが、この曲は後にヒップホップでよくサンプリングされ、特に有名なものにトゥーパックの「Hit ‘Em Up」がある。

Jan 26 2018

Hugh Masakelaが癌で他界

南アフリカ出身のミュージシャンで、政治的にも力を持っていたヒュー・マセケラが78歳で他界、癌だった。彼は1968年のヒット『Grazing In the Grass』がポップのナンバー1ヒットになったことで知られたが、本人はジャズ・ホーン奏者だと自認していた。1959年に彼はダラー・ブランド等とザ・ジャズ・エピストルズを結成し、アフリカ初の黒人オンリーのジャズバンドと言われた。アパルトヘイトによる暴力の悪化で彼は南アフリカを離れ、ロンドンとニューヨークで学ぶ。1967年にはモンタレー・ポップ・フェスティバルで演奏。他にも『Rumble in the Jungle』ボクシングの試合をザイールで開催するために尽力した。ポップやロックのレコードで演奏することもあり、バーズのヒット曲「So You Want To Be a Rock’n’Roll Star」にも参加、ポール・サイモンとツアーにも出た。彼自身の曲「Bring Him Back Home」は1987年の反アパルトヘイト運動のテーマ曲にもなった。1964年から66年までの妻はアフリカの歌手ミリアム・マケバで、一緒に演奏したりもしている。3回の結婚では、キャブ・キャロウェイの娘、クリスと結婚していたこともあった。

Jan 26 2018

Mark E, Smith 60歳で死去

ポスト・パンクのカルト的アーティストで、進化し続けたバンド、ザ・フォールの動力の源だったマーク・E・スミスが60歳で他界した。死因は発表されていないが、闘病中だった。スミスは彼のバンド名をアルベール・カミュの小説からとっている。キャプテン・ビーフハート、ザ・ドアーズ、フィリップ・K・ディックやキャンに影響を受けたと本人は言っていた。ザ・フォールは32枚のアルバムを発表していて、その全てが着実に売れていたが、爆発的な売り上げではなかった。彼のファンには英国ラジオの伝説ジョン・ピールがいて、ピールはよくスミスやザ・フォールを彼の番組で特集していた。イギリス国営放送BBCはスミスのドキュメンタリー「The Wonderful and Frightening World of Mark E. Smith」を作成している。

Jan 04 2018

アラバマの伝説的プロデューサーRick Hallが他界

アラバマの眠たげな小さな町、マッスル・ショールズを伝説的な音楽の町と変えたプロデューサーで、スタジオ・オーナーのリック・ホールが85歳で死亡した。ホールは若くして結婚したが、すぐに妻を事故で亡くし、酒に溺れて車上生活者になる。しかし、ある時一念発起して悲劇を乗り越えた。金や名誉は持たなかったが、彼はヒットする曲というものを知っている、ヒットする曲を作ることができるという自信を持っていた。1959年に音楽制作会社を共同設立し、ビリー・シェリル、ダン・ペン、クラレンス・カーターや、彼自身など偉大な才能に溢れる作曲/作詞家を抱えることになる。地域のミュージシャンの中からスタジオで演奏するプレイヤーを選び、カントリーでもR&Bでも、ロックにも通じる男らしくファンキーで、素朴なテイストの曲をレコーディングしていく。このセッション・ミュージシャン達はその後スワンパーズとして知られるようになり、レーナード・スキナードの「Sweet Home Alabama」の歌詞で音楽史に名前が残った。オリジナルの中心グループはキーボードのバリー・ベケット、ドラムのロジャー・ホーキンス、ベースのデイビッド・フッドや、ギターのジミー・ジョンソンの他にも多くのメンバーがローテーションで参加した。リスナーのほとんどがバンドは黒人で編成されていると思っていたが、このメンバーは白人で、黒人のシンガーのバックバンドとして活動することが多かった。1960年代のディープ・サウスと呼ばれる南部ではこのような人種の交わりはほとんど例を見なかったが、ホールと彼のミュージシャン達はそのような前例に惑わされることなく、偉大な音楽を目指した。ホールは情熱家だったためか、彼とは仕事がしづらいという人間もいて、特に有名なのはアレサ・フランクリンの夫で、よくケンカをしていたという。オリジナルのスワンパーズもフェイムを離れて自分たちのスタジオを設立、しばらくは険悪な時期が続いたがやがて仲直りした。

ホールについては、2013年のドキュメンタリー『Muscle Shoals』に詳しい。

 

以下には、フェイム・スタジオによる数多くの名曲を少し紹介したい。

アーサー・アレキサンダーの「You Better Move On」(フェイム・パブリッシングからの最初のヒット曲で、この曲の印税がスタジオの資金になった。ローリング・ストーンズが気に入ってカバーし、後にマッスル・ショールズでレコーディングも行っている)。

パーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman」(厳密に言うと、この曲は近所のスタジオで録音されているが、フェイムのミュージシャンが演奏し、リック・ホールがアトランティックに使用許諾を出している。この曲はチャート1位になり、マッスル・ショールズの評判を高めた)。

ジミー・ヒューズの「Steal Away」(ヒューズはパーシー・スレッジの従兄弟で、スレッジが書き直したゴスペル曲を歌っている。このレコーディングはヴィージェイ・レコードの目に留まり、後に偉大な作曲チームとなるダン・ペンとスプーナー・オールダムが初めて一緒に作ったアルバムに収録されている)。

エタ・ジェイムズの「Tell Mama」(ジャニス・ジョプリンなどにカバーされているこの曲は、フェイムのクラレンス・カーターが書いたもの。彼は自分でも「Patches」などのヒットを飛ばしている)。

ウィルソン・ピケットの「Mustang Sally」「Land of A Thousand Dances」「Funky Broadway」「Hey Jude」(デュアン・オールマンが「Hey Jude」の素晴らしいソロを弾いたものが多くのギタリストを触発した。エリック・クラプトンはオールマンに傾倒して探し出し、彼とプロジェクトバンドのデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成)。

オーティス・レディングの「You Left The Water Running」(所属作曲家のダン・ペンとリック・ホール、オスカー・フレイザーによって書かれ、ホールのためにオーティスがデモを歌ったもの。その後、フェイムではウィルソン・ピケットが録音した。ユニークなフレージングを含むレディングのバージョンは何年も経ってから発見され、1987年まできちんとリリースされなかったが、それ以前に海賊版がストーン・レコードから出されていてコレクターズアイテムとなっている)。

アーサー・コンリーの「Sweet Soul Music」(サム・クックの曲を元にオーティス・レディングとコンリーによって作曲され、アメリカでミリオンセラー、国際的にもスマッシュ・ヒットとなった)。

アレサ・フランクリンの「I Never Loved A Man」「Do Right Woman, Do Right Man」(両サイドともミリオン・ヒットとなったスマッシュアルバム。グラミーでアルバム・オブ・ザ・イヤー賞を受賞)。

ボビー・ジェントリーの「Fancy」(彼女はメガヒットとなった「愛のかけ橋-ビリー・ジョーに捧げる歌」でよく知られているが、この曲も地に足のついた、ミステリアスな曲でチャート40位につけている。その後多くのアーティストにカバーされた)。

マック・デイヴィスの「Baby Don’t Get Hooked On Me」(オスモンズなどのポップ・スターがスタジオを利用するようになり、マック・デイヴィスもヒットを何曲もフェイムでレコーディングしている)

Dec 20 2017

サックス奏者Ralph Carneyが他界

サックス奏者のラルフ・カーニーが61歳で他界した。カーニーは、オハイオ州アクロンをベースに活動したバンド、ティン・ヒューイで最初に知られるようになった。その後フリーの演奏者として活動しつつ、B-52’sやギャラクシー500、セント・ヴィンセント、マーク・リボー、エルヴィス・コステロ、ブラック・キーズ(このバンドには甥のパトリック・カーニーが所属している)などと活動。またことさら有名なのは、トム・ウェイツのアルバム『Rain Dogs』(1985年)、『Bone Machine』(1992年)、『Black Rider』(1993年)での演奏だ。ローラ・トーレルによるドキュメンタリー『This Is! Ralph Carney』は何年も前より制作中で、幾度かプレビューもしたものの、公式リリースはまだだという。

Nov 30 2017

ソウル・シンガーの Wayne Cochran他界

ダイナミックなソウル・シンガー、ウェイン・コックランが78歳で他界した。巨大な白い頭がトレードマークの白人男性で、ジェームス・ブラウンと並び称されるエネルギーの塊(キング・レコードではレーベルメイトで友人でもあった)、別名「ソウルの白い騎士」。70年代の後半に、マイアミで牧師になる。

彼の歌はその後も人気を博し続け、特に「Going’ Back to Miami(彼を象徴する曲になった)」はブルース・ブラザーズによってレコーディングされ、他にも1961年発表の「Last Kiss」は多くのシンガーによりカバーされ、パール・ジャムのバージョンは全米2位を獲得している。冥福を祈る。

Nov 30 2017

ジャズシンガーJon Hendricks死去

ジャズシンガーのジョン・ヘンドリックスが80歳にしてこの世を去った。ヘンドリックスはヴォーカリーズというスタイルを有名にし、ジャズのスタンダード・インストゥルメンタル曲にオリジナルの歌を多くつけたことで知られている。

彼はランバート・ヘンドリックス&ロスというジャズ・ヴォーカルグループで商業的に大成功した。ヘンドリックスはオハイオ州に、牧師の15人の子供の1人として生まれ、教会で聖歌を歌って育った。若かりしアート・テイタムとはオハイオで出会い、2人は技術を向上するためよく一緒に練習したという。その後、デイヴ・ランバートに会い、彼らはカウント・ベイシーの曲に共同で歌詞をつけていった。アニー・ロスともタッグを組み、3人でワーデル・グレイのサックス・ソロを元に「Twisted」という曲(後にジョニ・ミッチェルがカバーする)を作成。これが大人気となる。

この後、彼は5年間ロンドンに拠点を移動し、そこからカリフォルニア州の大学でジャズを教えるかたわら、ステージ・ショウとなる「Evolution of the Blues(進化するブルース)」を手がけるが、両方ともが音楽の歴史に深く関わる活動だった。1986年、彼はマンハッタン・トランスファーのアルバム『Vocalise』への貢献により、グラミー賞を受賞。1988年にはカーメン・マクレエのためにセロニアス・モンクの曲へ歌詞をつけたアルバム『Carmen Sings Monk』の歌詞を提供。1997年にはウィントン・マルサリスとコラボレーションを行い、2015年にはマイルス・デイヴィスのアルバム『Miles Ahead』に歌詞をつけた。安らかに。

Nov 23 2017

David Cassidy、他界

元ティーン・アイドルのデヴィッド・キャシディが67歳で、多臓器不全のため他界した。キャシディは70年代に驚異的な人気を誇り、テレビドラマ「パートリッジ・ファミリー」でバンドのリードボーカル、キース・パートリッジ役が特に人気だった。このテレビから派生したスマッシュヒット「I Think I Love You」は1970年にチャートでナンバーワンになり、500万枚以上を売り上げた。

彼の両親は2人とも俳優で、キャシディは若くしてブロードウェイで活躍し、その後活動場所をTVへ移行した。70年代後半、彼の音楽キャリアは大きく後退したが、俳優としては非常に人気が高く、ライブでも観客を集めることができていたという。人生の後半、彼は大酒飲みになり、2度も飲酒運転で注意を受けている。

2011年、キャシディは母が罹患したアルツハイマーと戦うための公共広告を始めた。今年初め、本人も認知症の診断を受けている。

Nov 07 2017

Keith Wilder が他界

70年代のR&Bヒートウェーヴの歌手、キース・ワイルダーが他界した。ヒートウェーヴは「Boogie Nights」「The Groove Line」や1977年のスマッシュヒット・バラードで、結婚式でよく使われている「Always and Forever」など数々のヒットを飛ばした。

Oct 29 2017

ロックのパイオニア、Fats Domino他界

ロックのパイオニア、ファッツ・ドミノが89歳で他界した。彼はニューオリンズをベースに活躍したシンガー兼ピアニストで、本名はアントワンだが、彼の丸い体型からついたあだ名「ファッツ(太っちょ)」としてよく知られている。愛嬌がにじみ出る人柄で、派手なアクセサリーを好み、こちらまで嬉しくなるような微笑みを絶やさなかった彼は、23枚のゴールドレコードを録音し、未だ黒人差別の強かった時代、白人の観衆に6億5千万枚のアルバムを売り上げた。

ブギウギ・スタイルを好み、3連音符を多用することでミディアム・テンポの曲に力強さを加える演奏の仕方やメロウな歌声で知られている。彼は10歳でピアノを始め、同じ頃学校からも中退した。1949年に発表した初シングル「The Fat Man」は100万枚を売り上げた(リトル・リチャードやエルヴィス・プレスリーでさえヒットは1955年以降)。自分の曲以外でも、多くのニューオリンズでのヒットレコードの録音に参加していた。

彼の曲は何度か白人のシンガーにハイジャックされている。例えば、パット・ブーンは1955年にファッツの曲だった「Ain’t That a Shame」(その後チープ・トリックがリバイバルする)で大きなヒットを飛ばしている。1956年にファッツは生涯で一番の大ヒットとなる「ブルーベリー・ヒル」を発表。この曲は彼が書いたものではなく、彼以前にも多くのメジャー歌手が歌っていたが、この大ヒットにより自分のものとした。1962年にはヨーロッパをツアーで回り、リヴァプールでは有名になる前のビートルズにも会っている。彼が最後にトップ100に名前を乗せた曲はビートルズの「Lady Madonna」のコピーだった(レノンとマッカートニーは二人ともファッツ・ドミノのファンで彼の曲のコピーもしている)。また、最近、セックス・ピストルズのグレン・マトロックは、彼らのヒット曲「God Save The Queen」は「Blueberry Hill」をピアノでいじっていた時に思いついたと明かした。

ファッツ・ドミノのパロディで有名になったのはアーネスト・エヴァンズで、チャビー・チェッカー(チャビーはファッツと同じく太っちょという意味で、さらにチェッカーはドミノのようなボードゲーム)という芸名で非常に成功した。

後年、ファッツは健康に問題を抱え、定収入もあったためあまりツアーには出ることがなかったが、彼のピンクのキャデラックでニューオリンズによく出没し、友人たちと楽しそうに食事をしたり、飲みに行っている。

偉大な音楽家の1人であるファッツ・ドミノよ、安らかに。

Oct 06 2017

偉大なるTom Petty、死去

偉大なるトム・ペティが他界した。トム・ペティ&ハートブレーカーズは、元々はフロリダの出身だが、デビューアルバムはロサンゼルス、レオン・ラッセルとデニー・コーデルのシェルター・レコードで録音した。バンド名を冠したアルバムは1976年に発売され、ゆっくりとだが確実にファンを増やす。1977年の夏にはニルス・ロフグレンの前座としてイギリスツアーを行い、彼らの曲「Anything That’s Rock’n’Roll」はUKチャート24位になっている。アメリカでは、シェルターがリリースしたプロモ用EP『Official Live ‘Leg』がラジオ放送でそこそこの回数放送される。このEPは後にコレクターズアイテムとして人気になった。「Breakdown」というシングルはビルボードで40位につける。「American Girl」はFMでそれなりに放送されたが、チャートでは発売1年経っても55位止まり。1978年の新曲「You’re Gonna Get It」がその後23位となる。しかし、彼を本当のスーパースターにしたのはジミー・アイオヴィンがプロデュースした3枚目のアルバム『Damn The Torpedoes』で、300万枚以上売り上げ、チャート2位となった。その後、バンドは8億枚のアルバムを売り上げることになる。

ペティの初来日パフォーマンスは1980年4月22日で、読売ホールでのコンサートだった。1986年には、トム・ペティ&ザ・ハートブレーカーズはボブ・ディランの前座兼バックバンドとして日本ツアーを行った。

ペティは同時にソングライターとしても知られている。彼の曲は、ジョニー・キャッシュ、グレース・ジョーンズ、リンダ・ロンシュタット、グレン・キャンベル、ジョン・メイヤー、ザ・ルミニアーズ、テイラー・スウィフトやスティーヴィー・ニックスにもカバーされている。

安らかに。

Sep 12 2017

CanのHolger Czukayが他界

ドイツのエクスペリメンタル音楽バンド、カンのリーダーだったホルガー・シューカイが79歳で他界した。カンでは、ベースを演奏するのに加え、エンジニア兼プロデューサーを務めた。カンのドラマー、ヤキ・リーベツァイトも今年初めに死亡している。バンドはフリー・ジャズとアフリカ音楽を愛していたが、自分たちは、ドラム・マシーンやコンピューターがスタジオで普通に使われる以前より、ユニークな形のミニマリスト・エレクトリックを演奏、ほぼ全ての操作を手動で行っていた。

このバンドは1968年に結成され、1970年から1973年の間には日本人のダモ鈴木も参加。バンドは鈴木がドイツを旅している間に出会い、彼はその晩ギグに参加した。

チャートや利益という点において、カンは大成功のバンドではなかったが、カルト的な人気を誇り、トーキング・ヘッズ、ソニック・ユース、パブリック・イメージなどのグループに多大な影響を与えた。ホルガー・シューカイは、カンの他にもブライアン・イーノ、ジャ・ウォブル、ディヴィッド・シルヴィアン、ユーリズミックスなどとも活動した。

Sep 12 2017

元Tower of PowerのRick Stevensが死去

元タワー・オブ・パワーのオリジナル・ヴォーカリスト、リック・スティーヴンスが77歳で死去した。「You’re Still A Young Man」や「Sparkling in the Sand」でのソウルフルなパフォーマンスで知られているスティーヴンスは、ファーストアルバム発売後すぐにドラッグに溺れ、ドラッグ売買のトラブルで3人を殺害した。36年間収監される予定だったが模範囚だったため2012年に仮釈放になる。その後、スティーヴンスは音楽業界に戻りタワー・オブ・パワーやコールド・ブラッドのゲストとして演奏活動をしていた。生前、彼は刑務所慰問などを行い、囚人たちに犯罪から足を洗うことを勧める活動をしていた。

Aug 03 2017

ハワイアンのBrothers Cazimero、Rolandが逝去

高名なハワイアン・ミュージックのデュオ、ブラザーズ・カジメロの弟、ローランド・カジメロが7月16日に死去。66歳だった。死因は公表されていないが、ローランドは過去3年ほど、心臓や糖尿病からの不調が知られている。ブラザーズ・カジメロはローランドは12弦のギター、兄のロバートはベースの演奏と、2人の素晴らしいコーラスによって作り上げられていた。ナ・ホク賞を25回、グラミー賞の候補に選ばれ、ハワイアン音楽の殿堂入りも果たしている。兄弟はピーター・ムーンのサンデー・マノアでプロとしての活動を始めた。彼らのアルバム『Guava Jam』はキッチュで奇抜なハワイアン音楽からハワイアンのルーツに向けてフラや元々のハワイ語、伝説などを取り入れた「ハワイアン・ルネッサンス』の始まりのひとつの重要な作品として知られている。兄弟はこのムーブメントの柱の1本として活動。キャリアの始めの頃は、ロイヤル・ハワイアン・ホテルで何年も活躍している。頻繁に来日もしていて、日本にはファンや友人も多い。安らかに。

May 01 2017

Cuba Gooding Sr. が他界

シンガーのキューバ・グッディング・シニアが72歳で他界した。彼の死因は発表されていないが、本人所有のシルバーのジャガーの中で、酒とドラッグ関連の物と一緒に発見されたという。キューバはR&Bのグループ、メイン・イングリーディエントのシンガーとして最も知られていて、1972年に大ヒット、のちにアーロン・ネヴィルにカバーされた「Everybody Plays the Fool」がある。彼の通夜はアポロ・シアターで行われた。
キューバ・グッディングの息子、キューバ・グッディング・ジュニアは有名な俳優で、映画『ザ・エージェント(Jerry McGuire)』に出演、アカデミー賞を受賞したことで知られている。

Apr 22 2017

ギタリストAllan Holdsworthが他界

ジャズ、ロック、フュージョンのギタリストとして著名なアラン・ホールズワースが70歳にして他界した。死因は発表されていない。
イギリス、ブラッドフォード出身だが、ホールズワースはもう何十年も南カリフォルニアに在住していた。彼の名前が最初に有名になったのは、奇妙な名前のバンドIggenbottomのファーストアルバム『Iggenbottom’s Wrench』から。セールスはそこそこといった塩梅だったものの、カルト的人気を博した(共同プロデューサーは東京在住のモーガン・フィッシャー)。
ギタリストとして非常に評価が高く、ソフト・マシーン、ピエール・ムーランズ・ゴング、スタンリー・クラーク、ビル・ブルフォード、トニー・ウィリアムス、チャド・ワッカーマンなどの多くの著名なアーティストと共演してる。ブルフォード、ヴァイオリニストのエディ・ジョブソン、ジョン・ウェットンと共にスーパーグループ、UKにも参加している。しかし、これらのグループは人気はあるものの、チャート上位に来ることはなかった。ホールズワースは「ギタリストの好きなギタリスト」としてよく知られていて、エディ・ヴァン・ヘイレン、フランク・ザッパや、ジョー・サトリアーニなどに敬愛されていた。安らかに。

Apr 17 2017

ドラマーBarry “Frosty”Smith他界

バリー・「フロスティ」・スミスは1970年代から活躍する著名なドラマーだったが、心臓病で71歳にして他界した。フロスティはサンフランシスコのベイエリアで育った。彼が最初に有名になったのは、オルガン奏者のリー・マイケルズと共演するようになり、大ヒットシングル「Do You Know What I Mean」(全米6位にチャートイン)で名前が売れた。
バーソロミュー・ユージン・スミス=フロストとして出したアルバムのカバーから、フロスティというニックネームがつけられる。その後すぐ、ロサンゼルスをベースに活動していて、全米40位ヒット曲「Hallelujah」を1971年に発表、ブラック・サバス、ELPやグランド・ファンクなどのメジャーバンドとツアーをしていたSweathogに参加した。Sweathogのメンバーとして活動していた間、フロスティは手でソロ演奏を行うなどのプレイスタイルで有名になる。これはレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムに影響を与えたとも言われる。
後に彼はセッションドラマー、ツアードラマーとして活動、多くの有名アーティストと演奏する。彼がテキサスのルーツ・ロッカー、デルバート・マクリントンと活動を始めた時は、テキサスで時間を過ごすことが多かったためオースティンに移住。「世界の隅にあるライブミュージックの聖地」と名乗る町の中心人物の一人となる。オースティンでは、彼はジュニア・ブラウン、ロキー・エリクソン、ブッチ・ハンコック、マーシャ・ボール他、多くのミュージシャンと共演している。
安らかに。