Category: R.I.P.

8月 25 2010

偉大なソングライター David Weissが死去

作曲家であり編曲家のデヴィッド・ヴァイスが8月23日、自宅で他界した。享年89歳。死因は老衰による自然死。
ヴァイスの代表作といえば「What a Wonderful World」 や「Can’t Help Falling in Love」、 「The Lion Sleeps Tonight」だろう。1968年のルイ・アームストロングの大ヒット曲「ワァット・ア・ワンダフル・ワールド(邦題:この素晴らしき世界)」は、イズラエル・カマカウィウォ’ウォレことイズ(93年)、ウィリー・ネルソン(96年)、ジョーイ・ラモーン(02年)による人気カバー・バージョンをはじめ、多数のアーティストがカバーしている。「キャント・ヘルプ・フォーリング・イン・ラヴ」は1962年のエルヴィス・プレスリーが歌い大ヒット、1993年にはUB40がカバーした。アフリカの曲をアレンジした「ザ・ライオン・スリープス・トゥ・ナイト」は1961年にトーケンズが歌い大ヒット、1972年にはロバート・ジョンがカバーして再びヒットした。さらに1975年にはブライアン・イーノがシングルとしてリリース、1993年にREMがB面としてリリースするなど、長く愛されている楽曲を多く生み出した。近年ではアメリカ作曲家協会の会長を務めていた。

8月 23 2010

西海岸シーンの牽引者Kenny Edwards死去

西海岸音楽シーンの主要人物の1人、ケニー・エドワーズが癌のため他界した。64歳だった。エドワーズは60年代にリンダ・ロンスタッドのバンド、ストーン・ポニーズで活動しその後も彼女のソロ・アルバムに参加。1977年にはカーラ・ボノフのソロ・デビューアルバムでプロデュース・演奏をしている。その他にはJ.D.サウザー、ウォーレン・ゼヴォン、ドン・ヘンリーなど多数のアーティストを手がけている。

8月 18 2010

ギャップ・バンドのロバート・ウィルソン死去

ファンク・バンド、ギャップ・バンドのベース、ロバート・ウィルソンが8月15日、心臓発作で他界した。享年53歳。
ロバート・ウィルソンは米オクラホマ出身、同じくオクラホマ出身のシンガーソングライター、レオン・ラッセルにその才能を見出され、14歳でデビュー、20歳になる頃にはビリー・プレストンやエリック・クラプトンといったミュージシャンとセッション経験があった。ロバートは兄のチャーリー、ロニーと共に1967年に結成したグループ、ギャップ・バンドのメンバーとして広く知られている。バンドは70年代から80年代にかけて“You Dropped A Bomb On Me” や“Early in the Morning”、 “Burn Rubber on Me”といったヒット曲を連発した。

The

8月 16 2010

Little Feat の Richie Hayward死去

リトル・フィートの創設者でドラマーのリッチー・ヘイワードが癌のため12日に他界した。64歳だった。
幼い頃にドラムを始めたヘイワードは12歳でプロ・ミュージシャンになった。アイオワからLAに移住し、様々なバンドで活動した後、1965年にローウェル・ジョージ率いるファクトリーに加入した。ファクトリー解散後、ローウェルはフランク・ザッパのバンドでしばし活動するが、ベーシストのロイ・エストラダを連れて脱退し、以前からの仲間だったリッチー・ヘイワードとピアニストのビル・ペインと共にリトル・フィートを結成した。
1971年にデビューしたリトル・フィートは、成功するまで時間がかかったものの、ブルース、ロック、カントリー、ニューオリンズ・ファンクをミックスさせたユニークなサウンドと独特のユーモアーのセンス、そしてネオン・パークによるアルバム・アートで、盛り上がり始めていた西海岸の音楽シーンを牽引していた。ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンスタッド、キャプテン・ビーフハート、ボニー・ライット、レイ・クーダーら西海岸シーンのアーティスト達と交流が深かった。また1976に発表された矢野顕子のデビュー・アルバム『ジャパニーズ・ガール』にも参加している。
リトル・フィ-トは商業的というより、評論家と熱狂的ファンの間で成功を収めたバンドだ。バンドはローウェル・ジョージが麻薬過剰摂取で死亡してから間もない、1979年に解散した。その後のヘイワードはセッション・プレイヤーとして活躍、エリック・クラプトン、ロバート・プラント、バディ・ガイ、トム・ウェイツ、ボブ・ディラン、カーリー・サイモン、ウォーレン・ゼヴォンなど多数のミュージシャンとレコーディング、またはツアー万バーとして参加していた。
1988年に再結成したリトル・フィートは、年間125公演をこなすライヴ・バンドとして再び人気を集めてた。ライヴでは昔から最近の作品やカバー・ソングを披露していた。リッチーは昨年肝臓癌が悪化するまでリトル・フィートで活動していた。
治療のためにカナダに移っていたが、残念な結果となってしまった。偉大なドラマー、リッチー・ヘイワードの冥福を心から祈りたい。

8月 16 2010

往年のジャズ・シンガーAbbey Lincolnが死去

ジャズ・シンガー、女優、公民権活動家のアビー・リンカーン(本名アンナ・マリー・ウッドブロッジ)が14日他界した。80歳だった。
1956年にデビューしたリンカーンは、オーケストラに乗せたセクシーな歌声で売り出した。同じ年に、映画『ザ・ガール・キャント・ヘルプ・イット』(邦題:『女はそれを我慢できない』)でジェイン・マンズフィールドと共演する。1957年リバーサイド・レコードに移籍し発表したセカンド・アルバム『ザッツ・ヒム』はリンカーンとソニー・ロリンズ、ケニー・ドーハム、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、マックス・ローチら優れたジャズ・ミュージシャンとの出会いを生み出した作品となった。後にリンカーンはローチと結婚する。2人は1962年から70年まで結婚生活をおくり、リンカーンは公民権をテーマにしたローチのアルバム『フリーダム・ナウ・スイート』にもゲスト参加した。リンカーンの代表作には『アビー・イズ・ブルー』(1959)、エリック・ドルフィーとコールマン・ホーキンズとの『ストレート・アヘッド』(1961)などがある。
リンカーンのドラマティックでソウルフルな歌唱力は、ビリー・ホリデイと引き合いに出されることが多かった。彼女自身もビリーを敬愛しており、1987年にはライヴ・アルバム『アビー・シングス・ビリー』をレコーディングするなど、ビリーの代表曲を多数カバーしている。
1968年に映画『フォー・ラヴ・オブ・アイヴィ』でゴールデングローブ賞を受賞。スパイク・リー監督の『モー・ベター・ブルース』に出演するなど女優としても活躍した。
70~80年代にはレコーディングの回数は減ったものの、1991年の『ザ・ワールド・イズ・フォーリング・ダウン』(クラーク・テリーとジャッキー・マクレーン参加)で見事カムバックを果たし、以降2-3年のペースでアルバムを発表し続け、2007年の『アビー・シングス・アビー』が最後の作品となってしまった。

8月 11 2010

ファンク界の伝説、Phelps “Catfish” Collinsが死去

ジェームス・ブラウンやファンカデリックで活動してきた伝説のファンク・ギタリスト、フェスプス“キャットフィッシュ”コリンズががんのため8月6日に他界した。享年66歳。弟のブーツィー・コリンズはキャットフィッシュとの思い出を振り返って、“兄であり、父親であり、親友だった”と語っている。

8月 05 2010

「Sunny」のBobby Hebbが死去

1966年の大ヒット曲「サニー」で有名な歌手のボビー・ヘブが癌のため8月3日に72歳で他界した。この「サニー」という叙情歌は微笑む女の子がテーマで、JFK暗殺とナイフ闘争で殺害された兄の衝撃的な死から立ち直ろうとヘブが1963年に作曲した。何度もレコーディングされてきた同曲のカバーのうち少なくとも150曲は日本でリリース、3分の1は邦人アーティストによるもので、スパイダーズ、ピンク・レディ、和田アキ子、ウルフルズ、カルメン・マキのヘヴィメタ・バージョンなど、2001年には奥田民生もカバーした。全世界では500以上のカバー・バージョンが存在するという説もある。同曲をレコーディングしてきたアーティストにはジェームス・ブラウン、ウィルソン・ピケット、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ヴェンチャーズ、ハーブ・オータ、ホゼ・フェリシアーノ。そしてデイヴ・パイク、ウェス・モンゴメリー、パット・マルティーノ、ソニー・クリスら多数のジャズ・アーティストがいる。
ナッシュヴィルで全盲の両親の間に生まれたヘブは8人家族の中で育った。3歳で家族のグループと共に歌い踊ることを始め、その後プロとしてR&B、ジャズ、ポップ、カントリーのバンドで活動し、ギター、トランペット、スプーンズを演奏してきた。

Sunny

7月 29 2010

名ペダル・スティール奏者、Ben Keithが他界

1971年のマルチ・プラチナム・アルバム『ハーヴェスト』以来、ニール・ヤングと仕事をし続けてきた、素晴らしいペダル・スティール奏者のベン・キースが27日(火)に心臓発作のために他界した。享年73歳。キースは、ニール・ヤング以外にもリンダ・ロンシュタット、CSN、ウォーレン・ジヴォンなど“西海岸系”のミュージシャンやパッツィ・クライン、ウェイロン・ジェニングス、ウィリー・ネルソン、エミー・ルー・ハリスら多数のアーティストと仕事をしてきた。また、1995年にはプラチナム賞を7回獲得したジュエルの『ピーシズ・オブ・ユー』をプロデュースした。

7月 21 2010

Big Starの初代ベーシスト、Andy Hummelが死去

ビッグ・スターのベーシスト、アンディ・ハメルが癌のため他界した。59歳だった。10代でボックストップス時代に有名になったシンガーのアレックス・チルトンは、1971年にビッグ・スターに加入。その彼も昨年3月に他界したため、唯一生きているオリジナル・メンバーはドラマーのジョディ・スティーヴンズだけとなった。

7月 08 2010

Harvey Fuqua 死去

ロックの殿堂入りも果たしている、R&B界の大御所、ハーベイ・フクアが7月6日、デトロイトの病院で心臓発作の為亡くなった。享年80歳。
ハーベイは1950年年代「シンシアリー」などのヒットを放って人気となったドゥーワップ・グループ、ムーングロウズのリーダーとして有名になり、やがてソロとなりシカゴの名門レーベル、チェス・レコードと契約、そこでレーベル・メイトの新進気鋭の女性シンガー、エタ・ジェームズと多くのデュエット・ソングを生み出した。その後裏方に回り、自分のレーベルやモータウンなどレコード会社各社の役職を務めたハーベイは、当時19歳だったマービン・ゲイと出会う。ハーベイが手がけたタミー・テレルとマービンのデュエットシリーズは大成功を収め、ハーベイはマーヴィン・ゲイの育ての親と言われており、マービン自身もハーベイの事を父親のようだと語っていた。その関係はマーヴィンが1984年、実の父親に射殺されるまで続いたのだった。
ハーベイは他にも多くのアーティストを世に送り出し、作曲やプロデュースでヒット曲を次々と生み出した。ディスコ全盛時代にもシルヴェスターやTwo Tons O’ Funなどをプロデュース、最近ではスモーキー・ロビンソンのロード・マネージャーを務めていた。合掌。

6月 29 2010

Kinksのベーシスト、Pete Quaife死去

ロックの殿堂入りもしている”最も英国らしい”バンドキンクスの初代ベーシストのピート・クウェイフが腎臓病で6月23日、デンマークの病院にて他界した。享年66歳。キンクスの創始メンバーだったクウェイフは、1964年から69年の初期ヒット時代にキンクスに在籍、それ以降はカナダとデンマークでアーティスト、漫画家として生活しており、90年にキンクスが〈ロックの殿堂〉入りしたときには、他の創設メンバーたちと共にステージに立っていた。

6月 23 2010

Michael Jackson、他界からもうすぐ1年

今週の金曜日はポップのスーパースター、マイケル・ジャクソンの1周忌だ。死後から1年経った今もマイケル関連の話題は絶えず世間を騒がせている。他界するまでの数年間、マイケルの築いた帝国は滅びつつあった。最新作のリリースとライヴが途絶えたために収入が激減しても豪華な暮らしを維持し、ハエの様に群がる大量のスタッフ、アドバイザー、小判ザメ、ごますり連中を養い続けていた。その反面で、マイケルの遺産管理財団は昨年だけで7億8300万ドル(約700億円)の利益を得たと言われている。その内訳の大半は映画『ディス・イズ・イット』の興行収入、そして人気が再燃し全米だけで1000万枚のアルバムを売上げたマイケルの過去作品によるものだ。

今日のチャートを見ると、トレインチャによるマイケル・ジャクソンのカバーを中心としたジャズ・ポップ・アルバム『MJ アコースティック・カバーズ』と『ネヴァー・キャン・セイ・グッドバイ』、マッシュアップ系のややベタなアルバム『ディス・イズ・マッシュ・アップ』がランクインしている。11月にはマイケルの遺産管理財団から2億5000万ドル(約230億円)で10枚のアルバムの権利を買い取ったと言われているソニーから未発表音源を収録したアルバム、『バッド』と『オフ・ザ・ウォール』のリイッシュー盤がリリースされる予定だ。12月にはシルク・ド・ソレイユによるマイケル・ジャクソンをテーマにしたサーカスが幕を開ける。

マイケルに血の繋がった子供がいないのは実質的に証明されているが、プリンス(13歳)、パリス(12歳)とブランケット(8歳)3人の子供達は相変わらず注目の的だ。これまでホームスクーリングを受けてきた子供達だが、今年9月からは私立の学校に通い始める予定だ。映画制作に興味があるプリンスは、すでに家族と一緒に映画を作ったことがあるとか。パリスは歌手か女優になるべく育てられている様だ。マイケルには私生児がいるという噂もあり、ノルウェー人のダンサー、オマー・バッティはマイケルの息子だとマイケルの父もこの事実を認めているが、オマー自身は“マイケルはあくまでも親友だ”と否定している。
“プリンス・オブ・ポップ”として売り出し中でマイケルにどことなく似ている歌手のB・ハワードが、マイケルと歌手のミキ・ハワードの私生児だという噂もある。

Michael

5月 27 2010

SublimeのBradley Nowell 没後14年

今日は南カリフォルニアを拠点とするバンド、サブライムのリーダーのブラッドリー・ノウェルの14周忌だ。ノウェルは、サンフランシスコのホテルでヘロイン過剰摂取のため享年28歳で他界。スカ、ダブ、パンク、サーフ・カルチャーの影響を取り入れたユニークで唯一無二のサウンドを展開したサブライムが売上げたアルバムの数は1700万枚以上にのぼる。その大半がノウェルの他界後に売れたものだ。今もノウェルの音楽性は彼の音楽の中で生命力を放っている。現在、サブライムは21歳のシンガー、ローム・ラメリズとサブライム・ウィズ・ロームとしてツアー中。ノウェルのレーベルであるスカンク・レコードと高校生の時に契約したスライトリー・スチューピッドは根強い人気をみせており、今夏は北米ツアーを行なう予定だ。

5月 25 2010

SlipnotのPaul Grey、他界

エキストリームなメタル・グループ、スリップノットのベーシストで創設時からのメンバー、#2もしくは“the pig”ことポール・グレイが、24日の朝米アイオワ州デ・モインのホテルで遺体で発見された。享年38歳。
警察によると犯罪に巻き込まれた形跡はないが、捜査を行っているとのこと。死因は不明で25日に行われる司法解剖を待って発表されるが、内部情報では麻薬の過剰摂取だったのではないかと言われている。

Slipknot

5月 20 2010

ハワイを愛したIsrael Kamakawiwo’ole 、今日で51歳に

ハワイアンミュージック界の大物“イズ”こと、イズラエル・カマカヴィヴォオレ。もし彼が生きていれば今日で51歳を迎える。
イズのアルバム『フェイシング・フォーワード』は、彼のソフトでソウルフルな歌声と癒されるウクレレのサウンドで人気となり、ハワイアンミュージックとして初めてのプラチナム賞を獲得した。世界的な人気曲となった「サムウェア・オーバー・ザ・レインボー/ワンダフル・ワールド」のメドレーは、映画やTVなどで多く使われている。この曲はiTunesで既に200万回以上のダウンロード販売数を記録、ワールド・ミュージック チャートの3位にランクインしている。
1976年に兄とともにマカタ・サンズ・オブ・ニーハウというバンドで音楽活動を初めたイズ、その兄が心臓発作で亡くなってしまった為、1990年に初のソロ・アルバムをリリース。ハワイ語で歌い、ハワイの米国からの独立を提唱するなどハワイアンとしての誇りを表現し続けていた。ハワイの相撲力士の功績を讃えていたイズは、曙や武蔵丸、小錦を歌い込んだ「横綱」や「天国から雷」といった曲も書いている。体重が350キロを超えていたため、肥満合併症で1997年に38歳の若さで死亡した。彼の葬儀の日にはハワイの旗が舞い、棺はキャピタル・ビルディングに納められた。1万人以上の人々が参列するなど政治家以外で国民的な栄誉を贈られた唯一の人物だった。

Israel Kamakawiwo'ole

5月 18 2010

ジャズ界の御大Hank Jonesが死去

偉大なジャズピアニスト、ハンク・ジョーンズが5月16日ニューヨーク、ブロンクスで死去、享年91歳。弟のトランペット奏者サッド・ジョーンズとドラマーのエルヴィンは、それぞれ1986年と2004年、先に逝去している。ハンク・ジョーンズは60枚以上のアルバムをソロ名義で発表、チャーリー・パーカー、レスター・ヤング、ウェズ・モントゴメリー、エラ・フィッツジェラルド、そして最近ではダイアナ・クラールといったジャズの大御所らと演奏、参加したアルバムは600タイトル以上ある。豊富なキャリアの中でも特に際立っているのは、マリリン・モンローがジョン・F・ケネディ大統領のためにセクシーな「ハッピー・バースデイ」を歌ったホワイトハウスでのあの有名なパフォーマンス、あのバックで演奏していたことだ。
Hank Jones

5月 17 2010

Ronnie James Dioが癌で死去

レインボー、ブラック・サバス、そして自身のバンド、ディオのシンガーとして活動してきたロニー・ジェームス・ディオが、現地時間の5月16日(日)朝に胃癌のため他界した。享年67歳。

Dio

4月 09 2010

音楽とファッション融合の達人、Malcolm McLaren死去

 ファッションと音楽業界の異端児でメディア使いでもあったマルコム・マクレーンが癌のために8日、享年64歳で他界した。ニューヨークで息を引き取ったマルコムの遺体は葬儀のためにロンドンへ輸送される模様。
父親が服飾業界で働いていたため、マルコム青年は複数のアートスクールへ通ううち、奇妙で挑発的で反抗的な態度を促進した“シチュエーショナリスト・ムーヴメント”に興味を持った。1971年に当時恋人だったヴィヴィアン・ウエストウッドとブティックを開業、マルコムはファッション・デザインとスタイリストの両方を手がけるようになる。
70年代初期にニューヨークを訪れることの多かった彼は、ニューヨークの音楽シーンに興味を持つようになり、その中でも特にニューヨーク・ドールズの様なグラムロックや後にパンク・ファンッションの象徴となる裂けた服と安全ピンのルックスの元祖、リチャード・ヘルに夢中になっていった。後にマルコムはニューヨーク・ドールズに赤いレザーの衣装を制作したのは有名な話である。やがてロンドンのマルコムのブティックにセックス・ピストルズを結成するスティーヴ・ジョーンズやポール・クックなどのミュージシャンが訪れるようになり、マルコムは彼らのマネジメントを始めた。このセックス・ピストルズの結成とマネジメントについては様々な議論が存在する。ピストルズが完全に自分のコンセプトと創作による産物だと主張するマルコムに対し、バンドはマルコムが彼らから金を横取りした単なる広報担当に過ぎないと反発する意見の食い違いが絶えなかった。セックス・ピストルズは後にパンク・ムーブメントの先駆者となり、マルコムとピストルズは巨大な成功と同時に災難も手に入れたのだった。
その後、ピルトルズから離れたマルコムはボウ・ワウ・ワウを手がけ、ヒットさせた。ファッションやブルンジ・ドラム、アルバム・ジャケットのためにモネの絵画を再現したアートやロリータ・ファションを前面に押し出したこのバンドは瞬く間にメディアの注目を浴びた。マルコムは1983年にアフリカ音楽とヒップホップを軸としたソロ・アルバム『ダック・ロック』をリリース。古いカウボーイ・ソングからヒントを得て大ヒットした「バッファロー・ギャルズ」や縄跳びのかけ声が元ネタの「ダブル・ダッチ」は、今日までマライア・キャリーやエミネムらを初め多数のアーティストにサンプリングされた。
1984年にはオペラ『蝶々夫人』の不可思議なエレクトロニック・バージョンを発表。80年代以降もマルコムは様々なファッション、映画、音楽のプロジェクトに関わったが、残念ながらパンク・ヒップホップ時代ほどの存在感は見られなかった。レッチリの活動初期にマネジメントを買って出た話は有名で、ドキュメンタリー『ファーストフード・ファッション』の共同プロデュースを手がけた。狡猾で唯一無二の人物だったマルコムの冥福を心から祈る。合掌。

3月 25 2010

ニューオリンズのブルース歌手Marva Wrightが死去

ニューオリンズ・ブルースの代表格マーヴァ・ライトが享年62歳で他界した。バーボン・ストリートのココ・クラブでのパフォーマンス終了後に容態が急変し、運ばれた病院で息をひきとった。死因は脳卒中。子供の頃に教会で歌い始めたマーヴァがプロとしての音楽活動を始めたのは40歳近くになってから。プロ転向後も学校の秘書として働き収入をまかなっていた。その後、地元で熱烈な支持を受ける様になったマーヴァはアラン・トゥーサン、アーロン・ネヴィル、ハリー・コニックJr. などニューオリンズの有名アーティストらと共演。ワールド・ツアーに繰り出し多数の国でアルバムをリリースした。毎年ニューオリンズのティプティナで開催されていたクリスマス・ライヴは特に人気だった。マーヴァの冥福を心から祈りたい。

3月 23 2010

Box TopsのAlex Chiltonが他界

偉大なるアレックス・チルトンが心臓発作のため享年59歳で他界した。常軌を逸した、ある意味奇妙とも言える音楽活動歴を持つチルトンは“早咲き”のアーティストだった。メンフィス出身のチルトンは後にボックス・トップスとして知られる様になるバンドのヴォーカルに抜擢。地元で人気を集めたボックス・トップスは、伝説のソングライター/プロダクション・チーム(ダン・ペン、スプーナー・オールドマン、チップス・モーマン)と出会い、彼らのプロデュースでファースト・アルバムをリリースした。このコンビによる作品から「ザ・レター」(1967年)、「クライ・ライク・ア・ベイビー」(1968年)、「ソウル・ディープ」(1969年)3曲の大ヒット曲が誕生した。作曲にも関わったチルトンだが、主にそのスモーキーでソウルフルなヴォーカルでリスナーを魅了していった。ビルボードで4週連続1位を獲得し、400万枚を売上げた「ザ・レター」を歌った時にまだ16歳だったことを考慮すると驚異的な才能の持ち主だったことがわかる。
 バンドが1970年に解散した後、自身のギターと作曲に磨きをかけたチルトンは1971年にメンフィス出身のバンド、ビッグ・スターに加入。リリースした3枚のアルバムはいずれもヒット曲には恵まれなかったが熱狂的なファン層を築いた。その後、ソロ活動をスタートしたチルトンはカバー曲とオリジナル曲の両方を手がけ、インディーズから様々なソロ・アルバムをリリースするがセールスは大々的には伸びなかった。しかし、REM、ティーン・エイジ・ファン・クラブ、プライマル・スクリーム、マシュー・スウィート、リプレイスメンツ(チルトンについて歌った「アレックス・チルトン」という曲を書いている)ら錚々たる顔ぶれから支持を受けていった。
 後に、ポージーズのメンバーをスカウトしてボックス・トップスを復活させたチルトンは、アメリカ、ヨーロッパ、日本でのツアーを実現。また「サーティーン」、「イン・ザ・ストリーツ」、「セプテンバー・ガールズ」などチルトンの書いた曲は今日でもカバーされている。2006年にはビッグ・スターへのトリビュート・アルバム、昨年はライノ・レコードからビッグ・スターのボックス・セットがリリースされた。今年のSXSWにビッグ・スターと出演する予定だったチルトンの急逝は非常に悲しく残念な出来事だったが、彼の冥福を心から祈りたい。合掌。

2月 16 2010

The KnackのDoug Fiegerが死去

パワーポップ・バンド、ザ・ナックのボーカルのダグ・ファイガーが癌のため他界した。享年57歳だった。ファイガーは1977年のメガヒット曲「マイ・シャローナ」の共作し歌ったことで知られる。ザ・ナックのボーカルになる以前は、メジャー所属のバンド2組で活動していたこともあった。ザ・ナックの全盛期以降はLAの音楽コミュニティーの一員として長年に渡って活動し、人気を集めていた。

1月 20 2010

ケイト&アンナ・マクギャリグルのケイトが死去

カナダ出身のフォーク・シンガー、ケイト・マクギャリグルが癌のため享年63歳で他界した。ケイトは妹のアンナと姉妹シンガー・ソングライター・デュオ、ケイト&アンナ・マクギャリグルで1975年にデビュー、10枚のアルバムを発表している。2人の曲は様々なアーティストにカバーされていて、中でも有名なのが「ハート・ライク・ア・ウィール」でリンダ・ロンスダルト、ビリー・ブラッグ、クアーズらがカバーしている。
ケイトはラウドン・ウェインライト3世と結婚しており、同じくシンガーソングライターとして活躍中のルーファス・ウェインライトとマーサ・ウェインライトの母親としても知られている。合掌。

1月 15 2010

ワックス・トラックスのダニー・フレッチャー死去

シカゴのワックス・トラックス(レコード店およびレーベル)の共同創始者のダニー・フレッチャーが肺炎のため享年57歳で他界した。1978年にレコード店としてオープンしたワックス・トラックスはKLF、ミニストリー、フロント242、リヴォルティング・コックス、ミート・ビート・マニフェストなど“インダストリアル・ディスコ”と呼ばれた革新的なクラブ・ミュージックをリリースするレーベルへと成長。フレッチャーの恋人でビジネス・パートナーだったジム・ナッシュは1995年にエイズで死亡している。契約書がないなどルーズな経営で知られたレーベルは1992年に破産し、カタログをTVTに譲渡した。合掌。

1月 15 2010

米ガレージ・ロッカーのジェイ・リータード急死

カルト的な人気で知られたアメリカのガレージ・ロッカー、ジェイ・リータード(29)が自宅で遺体で発見された。10代の若さで最初のレコード契約を結んだリータードは、マタドール・レコードからの最近の作品を含め様々な名義で22枚のアルバムをリリースしていた。合掌。

1月 15 2010

ハロルド・メルヴィンのテディ・ペンダーグラス死去

テディ・ペンダーグラスが59歳で他界した。ペンダーグラスは伝説の『イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ』などをレコーディングしたハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのメンバーとして有名に。男らしく魅惑的な声が特徴だったペンダー・グラスは、ソロ・アーティストとして「ラヴ・TKO」や「ターン・オフ・ザ・ライツ」を大ヒットさせた。1982年に運転していたロールスロイスの衝突事故で脊髄を損傷してからはずっと車椅子の生活を送っていた。合掌。

1月 06 2010

メンフィス・ソウルの立役者、ウィリー・ミッチェル他界

トランぺッター/プロデューサーのウィリー・ミッチェルが享年81歳で他界した。ミッチェルはメンフィスを拠点とするHiレコードのオーナー、アル・グリーンとアン・ペブルスのヒット・プロデューサー、グルーヴィーなインストゥルメンタル・アルバム『ソウル・セレナーデ』など多岐に渡る活動で知られていた。合掌。

1月 04 2010

ティム・ハートが肺癌で他界

イギリスのフォークロック・バンド、スティーライ・スパンのティム・ハートが肺癌のためクリスマス・イヴの12月24日に享年61歳で他界した。
ハートは1980年代に音楽から身を退いた後、野生/自然写真家として活動していた。


1月 04 2010

アヴェンジド・セヴンフォールドのドラマーが急遽

パンク/メタル・バンド、アヴェンジド・セヴンフォールドのドラマーのジェームス・“ザ・レヴ”・サリヴァンが、12月28日に南カリフォルニアの自宅で死体で発見された。まだ28歳だったにも関わらず、警察は死因を“自然死”と発表している。

1月 04 2010

ザ・バースデイ・パーティのローランド・ハワード死去

オーストラリア出身のバンド、ザ・バースデイ・パーティのギタリストのローランド・ハワードが肝臓癌のため12月30日に享年50歳で他界した。ハワードはリディア・ランチ、ニッキー・サドン、ヘンリー・ローリンズ、ニック・ケイヴ、ジェフリー・ピアスなどアンダーグラウンド的なアーティストら多数とコラボレーションを行なっていた。

12月 28 2009

ヴィック・チェスナット 他界

カルト的な人気で知られるシンガーソングライターのヴィック・チェスナットが、クリスマスの日に享年45歳で他界した。死因は筋肉弛緩剤の過剰摂取による自殺とみられている。インディーズ外では人気の伸びなかったチェスナットだが、他のミュージシャンからは尊敬される存在だった。コラボレートしたミュージシャンにはワイドスプレッド・パニック、ビル・フリーセル、カウボーイ・ジャンキーズ、ゴッドスピード・ユー!、ブラック・エンペラー、ヴァン・ダイク・パークスらと多数にのぼり、マドンナやスマッシング・パンプキンズにもカヴァーされている。
チェスナットは10代の時に自動車事故に巻き込まれて半身不随となって以来、車椅子での生活を余儀なくされていて、自身ではこの経験のおかげで自身の歌声を見つけたと語っていた。多作のソングライターでレコーディングした12枚以上のアルバムのうち『リトル』と『ウエスト・オブ・ローム』はREMのマイケル・スタイプによるプロデュース。今年には『アット・ザ・カット』と『スキッタリング・オン・テイク・オフ』をリリースしたばかりだった。