Category: R.I.P.

Aug 03 2017

ハワイアンのBrothers Cazimero、Rolandが逝去

高名なハワイアン・ミュージックのデュオ、ブラザーズ・カジメロの弟、ローランド・カジメロが7月16日に死去。66歳だった。死因は公表されていないが、ローランドは過去3年ほど、心臓や糖尿病からの不調が知られている。ブラザーズ・カジメロはローランドは12弦のギター、兄のロバートはベースの演奏と、2人の素晴らしいコーラスによって作り上げられていた。ナ・ホク賞を25回、グラミー賞の候補に選ばれ、ハワイアン音楽の殿堂入りも果たしている。兄弟はピーター・ムーンのサンデー・マノアでプロとしての活動を始めた。彼らのアルバム『Guava Jam』はキッチュで奇抜なハワイアン音楽からハワイアンのルーツに向けてフラや元々のハワイ語、伝説などを取り入れた「ハワイアン・ルネッサンス』の始まりのひとつの重要な作品として知られている。兄弟はこのムーブメントの柱の1本として活動。キャリアの始めの頃は、ロイヤル・ハワイアン・ホテルで何年も活躍している。頻繁に来日もしていて、日本にはファンや友人も多い。安らかに。

May 01 2017

Cuba Gooding Sr. が他界

シンガーのキューバ・グッディング・シニアが72歳で他界した。彼の死因は発表されていないが、本人所有のシルバーのジャガーの中で、酒とドラッグ関連の物と一緒に発見されたという。キューバはR&Bのグループ、メイン・イングリーディエントのシンガーとして最も知られていて、1972年に大ヒット、のちにアーロン・ネヴィルにカバーされた「Everybody Plays the Fool」がある。彼の通夜はアポロ・シアターで行われた。
キューバ・グッディングの息子、キューバ・グッディング・ジュニアは有名な俳優で、映画『ザ・エージェント(Jerry McGuire)』に出演、アカデミー賞を受賞したことで知られている。

Apr 22 2017

ギタリストAllan Holdsworthが他界

ジャズ、ロック、フュージョンのギタリストとして著名なアラン・ホールズワースが70歳にして他界した。死因は発表されていない。
イギリス、ブラッドフォード出身だが、ホールズワースはもう何十年も南カリフォルニアに在住していた。彼の名前が最初に有名になったのは、奇妙な名前のバンドIggenbottomのファーストアルバム『Iggenbottom’s Wrench』から。セールスはそこそこといった塩梅だったものの、カルト的人気を博した(共同プロデューサーは東京在住のモーガン・フィッシャー)。
ギタリストとして非常に評価が高く、ソフト・マシーン、ピエール・ムーランズ・ゴング、スタンリー・クラーク、ビル・ブルフォード、トニー・ウィリアムス、チャド・ワッカーマンなどの多くの著名なアーティストと共演してる。ブルフォード、ヴァイオリニストのエディ・ジョブソン、ジョン・ウェットンと共にスーパーグループ、UKにも参加している。しかし、これらのグループは人気はあるものの、チャート上位に来ることはなかった。ホールズワースは「ギタリストの好きなギタリスト」としてよく知られていて、エディ・ヴァン・ヘイレン、フランク・ザッパや、ジョー・サトリアーニなどに敬愛されていた。安らかに。

Apr 17 2017

ドラマーBarry “Frosty”Smith他界

バリー・「フロスティ」・スミスは1970年代から活躍する著名なドラマーだったが、心臓病で71歳にして他界した。フロスティはサンフランシスコのベイエリアで育った。彼が最初に有名になったのは、オルガン奏者のリー・マイケルズと共演するようになり、大ヒットシングル「Do You Know What I Mean」(全米6位にチャートイン)で名前が売れた。
バーソロミュー・ユージン・スミス=フロストとして出したアルバムのカバーから、フロスティというニックネームがつけられる。その後すぐ、ロサンゼルスをベースに活動していて、全米40位ヒット曲「Hallelujah」を1971年に発表、ブラック・サバス、ELPやグランド・ファンクなどのメジャーバンドとツアーをしていたSweathogに参加した。Sweathogのメンバーとして活動していた間、フロスティは手でソロ演奏を行うなどのプレイスタイルで有名になる。これはレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムに影響を与えたとも言われる。
後に彼はセッションドラマー、ツアードラマーとして活動、多くの有名アーティストと演奏する。彼がテキサスのルーツ・ロッカー、デルバート・マクリントンと活動を始めた時は、テキサスで時間を過ごすことが多かったためオースティンに移住。「世界の隅にあるライブミュージックの聖地」と名乗る町の中心人物の一人となる。オースティンでは、彼はジュニア・ブラウン、ロキー・エリクソン、ブッチ・ハンコック、マーシャ・ボール他、多くのミュージシャンと共演している。
安らかに。

Apr 13 2017

ギタリストのJ. Geils死去

ギタリストのJ.ガイルズが71歳で亡くなった。
本名ジョン・ウォーレン・ガイルズは、友人のリチャード・サルヴィッツ(後にマジック・ディックとして著名になる)やベーシストのダニー・クレインと、アコースティックのブルースバンドを立ち上げた。彼らと活動中、シンガーのピーター・ウルフとドラマーのステファン・ジョー・ブラッドが所属していた、ボストン近郊で活動中のハルシネーションズというバンドと仲良くなる。初期のJ.ガイルズ・ブルース・バンドが不仲になった時、この二つのバンドは合体して、その後キーボードプレイヤーのセス・ジャストマンをメンバーに加えて活動を再開した。

J.ガイルズ・バンドというバンド名にもかかわらず、ガイルズはメイン・ヴォーカルではなく、ピーター・ウルフが鮮やかでエネルギッシュなフロントマンで、ほとんどの曲をセス・ジャストマンと二人で書いていた。マジック・ディックはハーモニカの達人で、彼の代表曲「Whammer Jammer」は日本でもラジオのFEN(現AFN、米軍のラジオ放送網)のテーマになったことで有名になっている。だが、ガイルズは味のあるギター・プレイヤーで、たまに作曲家で、多くの人々が最高のライブ・バンドと思っているバンド(彼らのライブアルバム『Full House』はバンド最高のアルバムと言われている)の共同創設者だ。
当初、ブルースとR&Bがメインのバンドだったが、徐々によりポップな要素を増やしていき、それが1980年代の大ヒット「Centerfold」や「Love Stinks」へと繋がっていった。
バンドの最初の解散事件は1983年、ウルフが独立してソロになった時だが、その後何度も再結成と解散を繰り返していて、その何度かはメンバー同士の確執から起こっている。J.ガイルズ本人は、バンドの解散後は趣味にも仕事にもしていたクラシック・カーに時間を使ったり、よりブルージーなバンドと演奏活動をしたり、マジック・ディックとも共演していた。
安らかに。

Apr 05 2017

梯 郁太郎、死去

音楽業界の伝説、梯 郁太郎が4月1日に87歳で他界した。
梯氏は、そのキャリアをオルガン用のリズムマシーン(当時はオルガン奏者用のものだった)から始めたが、1967年、彼の最初のリズムマシーンを完成させる。ミュージシャンでエンジニアのドン・ルイスと、さらに複雑で、プログラム可能な機械を開発しようと試み、ローランドのTR-808の誕生となる。808は1980年から1983年の三年間だけのために作られ、83年には失敗作と思われた。
ドラム音はアナログで生成され、あまりリアルではなかったため「ロボチック」とか「宇宙っぽい」「おもちゃのようだ」と批判が続き、もっと高価な、実際のドラム音をサンプリングしたリンドラムの方が好まれた。
しかし、ミュージシャンの一部は、比較的安価だった上にプログラムが簡単でパワフルなベースサウンドの808を愛好した。808はグランドマスター・フラッシュ、Run DMC、パブリック・エネミー、ビースティ・ボーイズ、そして日本のYMO、マーヴィン・ゲイ、フィル・コリンズやホイットニー・ヒューストンなど、多くのミュージシャンのヒットレコードに使われている。2015年には808のドキュメンタリー映画が制作され、808を使っていた多くのミュージシャンへのインタビューが収録されている。
また梯氏は、MIDIの開発でも活躍、2013年にはその功績をたたえてグラミー賞の技術賞を受賞している。バークレー音楽学校からも、1991年に名誉学位を贈られた。2001年には自伝『ライフワークは音楽 電子楽器の開発にかけた夢』を上梓している。この本は2002年に英訳され、アメリカでも出版された。
安らかに。

Mar 21 2017

ロックの父Chuck Berry他界

「ロックの創始者」として知られるチャック・ベリーが90歳で他界した。他の誰よりもロックという音楽に大きな影響を与えた人物だった。
エルヴィス・プレスリーの方が有名かもしれないが、プレスリーはほぼ自分以外の人間が書いた曲を演奏し、ギターも演奏するためというより小道具として扱っていた。対するチャック・ベリーは自分で歌詞を書き、その曲はボブ・ディランをして「ロック界のシェイクスピア」と言わしめた。また、彼は独特のギター・スタイルを確立し、多くのロック曲の基礎となった。ビートルズ、ローリングストーンズはチャックに多大な影響を受けており、彼の曲のカバーも多くレコーディングしている。
しかし、人気絶頂の時、14歳の少女と性的な関係を持って他州に連れ出したということで逮捕されてしまい、この経験は彼を疑心暗鬼にさせた。多くの知人が、彼の初期の曲に溢れていた、明るくてユーモアいっぱいの人柄が薄れてしまったようだと話している。
収監された後も、主にオールディーズのサークルで音楽活動を続け、リハーサルなしの、現地で選ばれたバンドと共演、ステージごとに支払いを要求するスタイルを続けた。
彼の「Johnny B. Goode」はロックの歴史で最もカバーされ、他にも多くの曲がロックのスタンダードとなっている。
安らかに。

Mar 18 2017

James Cotton81歳で逝去

「ミスター・スーパーハープ」と呼ばれたジェイムス・コットンが81歳で他界した。友人たちにコットンと呼ばれた彼は、幼い時にハーモニカを始め、9歳にしてミュージシャンとして働いていた。9歳の時、両親の他界をきっかけに家を出たコットンに、叔父が、彼のアイドルだったサニー・ボーイ・ウィリアムソンに紹介してくれたのだ。この出会いにより、彼はブルースの世界で有名になり、15歳でレコーディングを始め、その後すぐにマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフと共演することになる。1965年には、自分の名前でレコーディングを始めている。
ジャニス・ジョップリンはコットンの大ファンで、彼女のコズミック・ブルース・バンド時代、コットンにツアーの前座を依頼している。
1977年にはまたマディ・ウォーターズと共演し、ジョニー・ウィンターがプロデュースした「Hard Again」がグラミー賞を受賞している。
最近は、アリゲーター・レコードでほとんどのレコーディングを行っていた。

Mar 18 2017

プロデューサーのTommy LiPuma、他界

ジャズとポップを融合することにかけては右に出るものがいないという伝説的なプロデューサーのトミー・リピューマが80歳で他界した。彼は、自分もサックス・プレーヤーだったが、音楽業界の様々な仕事を経てA&Mのプロデューサーに就任。サンドパイパーズの世界的なヒット『Guantanamera』を手がけた。彼の次の大ヒットはジョージ・ベンソンの『Breezin’』。その後、彼はボブ・クラスノーとブルーサム・レーベルを立ち上げ、デイヴ・メイソンやダン・ヒックスなど、数々のロックミュージシャンと仕事を重ねていく。
他にも、バーブラ・ストライサンド、マイルス・デイヴィス、ドクター・ジョン、ポール・マッカートニーなど、業界の巨人と呼ばれる多くのミュージシャンと仕事をした。彼のレコーディングは何百万枚も売り上げ、グラミー賞も五回受賞。
また、ダイアナ・クラールがまだ売れない時に彼女の才能に気付き、その後20年間で11枚のアルバムを作成、彼女がジャズの世界でスターになるのを見守った。
リピューマはその人柄の良さでも業界内でよく知られていて、音楽的才能だけでなく、非常に慕われていた。彼の死を悼む人は多い。

Mar 15 2017

Y&TのJoey Alves逝去

Y&Tのリズム・ギタリスト、ジョーイ・アルヴィスが63歳で他界した。2011年にベーシストのフィル・ケネモア、昨年ドラマーのレオナード・ヘイズが逝去しているので、彼が死んだことで、Y&Tのオリジナルメンバーはシンガーでギタリストのデイヴ・メニケッティだけになる。
Y&Tは1974年にオークランドで結成され、Yesterday & Todayというバンド名で1976年に初アルバムをレコーディングした。バンド名の由来は、ビートルズの同名のアルバム。このハードロックバンドは、世界中で400万枚を超えるアルバムを販売した。

Mar 08 2017

歌手Valerie Carterが他界

歌手のヴァレリー・カーターが64歳で他界した。カーターは、「ウエストコースト・ミュージック」と呼ばれるムーブメントの一部で、ジャクソン・ブラウン、リトル・フィート、ロンシュタット、ジェームズ・テイラーなどの、50を超える大手レーベルからリリースされた曲のバックコーラスとして活躍した。
彼女の歌手デビューはハウディ・ムーンというトリオだが、1974年に1枚のアルバムを上梓するに止まる。このアルバムはリトル・フィートのローウェル・ジョージのプロデュースで、彼はカーターの最初のソロアルバム『Just A Stone’s Throw Away』も手がけた。このソロアルバムには、人気のファイブ・ステアステップスのリメーク曲「Ooh Child」も含まれる。
カーターは、日本ではカルト的な人気を誇っており、日本限定のライブアルバムも発売されている。バックコーラスや、カバーで有名だが、ソングライターとしても成功しており、ジュディ・コリンズ、ジャクソン・ブラウン、ブラザーズ・ジョンソンやアース・ウィンド・アンド・ファイアにも楽曲を提供している。

Feb 21 2017

Clyde Stubblefieldが他界

ドラムの達人、クライド・スタブルフィールドが73歳で他界した。彼は「Cold Sweat」「There was A Time」「I Got the Feelin’」「Sex Machine」など、ジェームス・ブラウンのヒットを支えたことで知られている。ジェームス・ブラウンとは1965年から1971年の間共演。二人とも正式に音楽を勉強したことがなく、フィーリングで演奏したという。クライドの代表作は「Funky Drummer」で、1000回を超える演奏からサンプリングされた。この中には、パブリック・エネミー、Run DMC、NWAやビースティ・ボーイズのトラックも含まれている。
著作権というのは多くの場合歌詞提供者と楽曲提供者に行くものだが、ジェームス・ブラウンは、ほとんどの場合、バンドの曲を全て自分のものとして登録していたため、スタブルフィールドはジェームス・ブラウンのヒット曲、特に収益のあるような曲にはクレジットされていないため、収入が全く得られなかった。実際、彼の名前はミュージシャンやファンク音楽ファン以外には知られていない。
ブラウンと決裂した後は自分のバンドを作って活動し、ジェームス・ブラウンのバンドを金銭的な理由で離れたミュージシャンが集まって作ったJ.B.’sとも共演している。ここ最近は、2013年のヤマハ・レガシー・アワードなど多くのトリビュートを受けている。日本ではJ.B.’sは高く評価されており、1999年には、P-Vineから最初の再結成アルバムがアメリカに先行して日本で発売された。
音楽の巨人よ、安らかに。

Feb 13 2017

Al Jarreau、病院に搬送後、死去

アル・ジャロウは、過労と診断されすぐに入院、後に死亡。76歳だった。
ダイナミックで、国際的に愛されたヴォーカリストだったジャロウは7つのグラミー賞を獲得。ジャズ、ポップス、R&Bなどのカテゴリーを横断する活躍を見せた。
彼のユニークな歌い方はポップスのカテゴリーに分類されることが多いが、要素としてはジャズのテクニックを駆使していた。彼は影響を受けたミュージシャンとして、ビートルズ、スティービー・ワンダー、スライ・ストーンにジョン・ヘンドリックスを上げている。
彼のアルバムのうち14枚はビルボードのトップ200にランクイン、同時にジャズチャートにもランクインしているが、彼の1981年のアルバム『Breakin’ Away』はポップスで全米9位、R&Bとジャズのチャートでそれぞれ1位になっている。このアルバムには彼を象徴する曲「We’re In This Love Together」が収録されていた。

Feb 13 2017

Sonny Geraci、69歳で死去

クリーブランド生まれのポップ・シンガーで、1960年代はアウトサイダー、1970年代はクライマックスのリードシンガーとして全米ヒットを連発した、ソニー・ゲラチが69歳で亡くなった。ゲラチは2012年に脳動脈瘤を患い、以来病床にあった。
ソニー・ゲラチは、ミュージシャンとしてのキャリアをスターファイアというバンドで開始。ジェームズ・ギャングのドラマー、ジム・フォックスとはここで初めて会った。その後メンバーを少し入れ替え、バンドの名前を変更、アウトサイダーズとなり、キャピトルと契約。彼らのヒット曲「Time Won’t Let Me」は全米トップ5ヒットになり、100万枚を超えるセールスとなり、のちにバッキンガムズ、プリムソールズやイギーポップにカバーされた。アウトサイダーズには、この他、アイズレーブラザーズのリメークを含む3曲のベスト40ヒットがあるが、一般的には一発屋と思われている。三枚のアルバムをリリースした後、バンドは解体を始め、一時的に二つのアウトサイダーズが存在していたこともある。法廷での闘争の後、ゲラチは自分のバンドの名前をクライマックスに変更し、1972年に「Precious and Few」で全米3位のヒットを飛ばす。
1980年には音楽業界を離れたが、のちにオールディーズのサーキットに舞い戻り、ツアーを中心に活動していた。

Feb 06 2017

John Wetton、癌で他界

シンガー兼ベーシストのジョン・ウェットンが1月31日、67歳でこの世を去った。彼は、数々の有名プログレッシブ・ロックバンドへの参加でも有名だった。死因は結腸癌。
ウェットンはロクシー・ミュージック、UK、キング・クリムゾン、ユーライア・ヒープやエイジアなど、著名なバンドに所属していた。

Jan 27 2017

Allman Brothers BandのButch Tracks、死去

オールマンブラザーズの結成メンバーでドラマーのブッチ・トラックスが、自ら銃で頭を打ち抜き亡くなった。69歳だった。
ブッチ・トラックスは、1947年5月11日、フロリダ州ジャクソンビルに、クロード・ハドソン・トラックスとして生まれる。1969年にデュアンとグレッグのオールマン兄弟、ディッキー・ベッツ、ベリー・オークリー、ジェイモー・ジョハンソンとオールマンブラザーズバンドを結成。ブッチとジェイモーは、ジェームス・ブラウンやオーティス・レディングのラインナップに触発されてABBダブル・ドラム・ユニットを組んだ。ブッチは、1969年のバンド結成時から2014年の解散までずっとこのバンドに所属していた。
オールマンブラザーズバンドは、1971年のダブル・ライブ・アルバム『フィルモア・イースト・ライブ(原題At Fillmore East)』のブレイク。これが彼らの最大のヒットになったが、とにかくライブ・バンドとしての強みが発揮されている。事実、彼らの45年間のキャリアの中で、ヒットチャートのトップ10に食い込んだのは一曲のみ、1973年の「Ramblin’ Man」だった。このバンドは、1972年の精神的にもリーダーだったデュアン・オールマンと、ベーシストのベリー・オークリーの死を乗り越え、グレッグ・オールマンとディッキー・ベッツの酒や薬物問題を乗り越え、メンバーの変更を繰り返して存続した。1997年にはブッチの二十歳の甥、デレク・トラックスがバンドに参加している。
ブッチ・トラックス、安らかに。

Jan 26 2017

元Mott the HoopleのPeter Overend Wattsが死去

癌との闘病の末、イギリスのロックバンド、モット・ザ・フープルのベーシストとして有名なベーシスト、ピート・”オーヴァーエンド”・ワッツが、69歳で亡くなった。一年前に死去した、幼馴染でバンドの立ち上げメンバーだったデイル・”バッフィン”・グリフィンを追う形になった。この二人はモット・ザ・フープルの前身となるサイレンスを結成する前にいくつかのバンドに共に参加していた。プロデューサーのガイ・スティーブンス(ザ・クラッシュ、フリー)と契約した際にステージネームの変更を勧められ、ワッツはオーヴァーエンドをミドルネームとして加え、自分のステージネームとした。アイランド・レコードに所属している間は、ライブには非常に人気があったものの、チャートでは鳴かず飛ばずが続く。解散一歩前になったとき、彼らのファンだったデイヴィッド・ボウイが曲を提供、この曲がのちに彼らのテーマとなる「All the Young Dudes」だった。この後にリリースされた「Mott」も国際的な大ヒットになる。この後すぐにバンドはガタガタになるも、何年も人気を維持。2009年には大成功の再結成ライブツアーを敢行した。
安らかに眠ってほしい。

Jan 26 2017

CanのJaki Liebezeit、78歳で死去

ドイツ人ドラマーのヤキ・リーベツァイトが78歳でこの世を去った。彼は影響力の強い、実験的音楽のkrautrockバンド、カンのメンバーとして有名。独創的かつミニマリスティックで、ファンキーなドラミングスタイルで知られていた。
リーベツァイトは、カンの他にも、ブライアン・イーノやデペッシュ・モード、ジャ・ウォブルらのレコーディングにも参加。カンの曲は、カニエ・ウエスト、Qティップや、スパンク・ロックを含む数々のヒップホップ・アーティストがサンプリングしている。

Dec 29 2016

Alphonse Mouzon、癌で亡くなる

ジャズ・ドラマーのアルフォンス・ムザーンが68歳で亡くなった。死因は非常に珍しい型の癌だった。ムザーンは、ドラマーとして活動し始めてすぐにマッコイ・タイナーと共演し、ウェザー・リポートには最初のドラマーとして参加している。1972年ブルーノートと、ソロ・アーティストとして契約。1973年から75年は、ラリー・コリエルのフュージョン・グループ、イレヴンス・ハウスにも参加している。1991年には、マイルス・デイヴィスと映画『Dingo』のサウンド・トラックを作り、デイヴィスの元妻ベティ・デイヴィスと恋人関係にあった。
また、ムザーンは何作かの映画に出演、ミュージシャン役を演じた。1995年にレッド・ツェッペリンがロックの殿堂入りした授賞式では、ロバート・プラントがジョン・ボーナムにアルフォンス・ムザーンが大きな影響を及ぼしたと言及。
サイドマンとして、ジェフ・ベック、カルロス・サンタナ、トミー・ボーリン、ギル・エヴァンス、ジャコ・パストリアス、スティービー・ワンダーなどと共演。1992年には、自主レーベルTenacious Recordsを立ち上げ、死ぬ直前までレコーディングを続けていた。安らかに。

Dec 21 2016

Leonard Cohenの死によせて

先月7日に他界したレナード・コーエンは詩人、シンガーソングライター、小説家で色男、かつ禅僧でもあった。様々な意味でユニークなアーティストだった彼がファースト・アルバムを発表したのは32歳の時。ヒット作に恵まれたこともなく、特別に秀でた歌や演奏の才能があった訳でもない彼は、長い期間に渡ってアルバムを発表しない人物だった。彼の作品の主なテーマはロマンチックで好色な一方で、多様な宗教から受けた影響を反映したものだった。元マネージャーに数百万ドルを横領された後、70歳を過ぎてからキャリア上で最も頻繁にツアーに出るようになったのも珍しい話だ。コーエンは交際した女性達についてロマンチックな曲を書いた他(「ソー・ロング・マリアン」、「スザンヌ」など)、ジャニス・ジョプリン、バックシンガーのローラ・ブラニガンやジェニファー・ウォーンズと恋愛関係にあったことでも知られる。彼の評価は長年をかけて築かれたもので、現在では世界有数の優れたソングライターとして知られる。ティム・バックレーの「ハレルヤ」、ジョー・コッカーズの「バード・オン・ザ・ワイヤー」、ドン・ヘンリーの「エヴリィボディ・ノウズ」、ロベルタ・フラックの「ヘイ、ザッツ・ノー・ウェイ・トップ・セイ・グッバイ」、ジャニファー・ウォーンズの「フェイマス・ブルー・レインコート」、ジュディ・コリンズの「スザンヌ」など、彼の曲には他のアーティストがカバーして有名になった作品が多い。

Nov 17 2016

60年代のアイドルBobby Veeが死去

1960年代にアメリカのティーンアイドル歌手として一世を風靡したボビー・ヴィーがアルツハイマー症の合併症で他界した。享年73歳。本名ロバート・ヴェリーンは、10代の時に兄のバンドで歌い始め、若干17歳で初のトップ10入りを果たした。1960年代初期から半ば頃に活躍したハンサムでクリーンなイメージのリッキー・ネルソン、フランキー・アヴァロン、ボビー・ライデルらと並んで、エルヴィスよりも控えめでブルージーなポップスやバラードを歌ったヴィーは、テレビに頻繁に出演して次々と曲を大ヒットさせた。彼の作品がビルボードのトップ100にランクインした回数は38回、代表曲の「燃ゆる瞳(原題:The Night Has a Thousand Eyes)」、「テイク・グッド・ケア・オブ・マイ・ベイビー」や「ラバー・ボール」などのヒット曲で知られる。また、駆け出しの青年だったボブ・ディランがエルストン・ガン名義でピアノを弾いていた頃に、初めてプロとしてライブを行なうチャンスを与えた人物としても知られる。ヴィーの冥福を心から祈りたい。

Nov 11 2016

Chess Records創設者のPhil Chessが死去

シカゴを拠点とするレーベルChess Recordsの創設者フィル・チェスが他界した。享年95歳。フィルは兄レオナルドと共に1928年にポーランドからアメリカに移住。フィルが一時期働いていた家族経営の廃品置き場の向かいには、黒人たちが通うキリスト教バプティスト派の教会があり、フィルの音楽的嗜好に多大な影響を与えた。兵役を終えた兄が権利を買ったAristocrat Recordsが後にChess Recordsに改称された。レーベルが最初にリリースしたマディ・ウォータースの「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」は瞬く間にヒット曲に。その後も、ブルース、ジャズ、ロックの定番曲になったチャック・ベリー、ハウリン・ウルフ、ボ・ディドリー、エタ・ジェイムズやサニー・ウィリアムソンらの作品を世に送り出した。フィルの冥福を心から祈りたい。

Oct 21 2016

追悼:偉大な作曲家Rod Temperton

イギリス出身の作曲家ロッド・テンパートンが、癌のために他界した。享年66歳。ヒートウェイヴのメンバーとして有名になったテンパートンは、大ヒット曲「オールウェイズ・アンド・フォーエーヴァー」や「ブギー・ナイツ」を書いたことで知られる。その後は、クインシー・ジョーンズをはじめ、マイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール』や『スリラー』などに楽曲を提供した。彼の書いた曲はこれまでに、アレサ・フランクリン、アニタ・ベイカー、ジョージ・ベンソン、ハービー・ハンコック、チャカ・カーンにレコーディングされている。テンパートンの冥福を心から祈りたい。

Oct 04 2016

カントリーソングライターのJohn D. Loudermilkが死去

ソングライターのジョン・D・ラウダーミルクが他界した。享年82歳。ラウダーミルクは、共にルーブン・ブラザーズで活動するカントリーのスターであるアイラ・ルービンとチャールズ・ラウダーミルクをいとこに持つ。ポップとカントリーのソングライターとして人気を集めたラウダーミルクは、エディ・コクランのヒット曲「シッティン・イン・ザ・バルコニー」(1957年)、ニュービーツの「エヴリィシングズ・オールライト」(1964年)、ナッシュヴィル・ティンーズの「タバコ・ロード」(1964年)、マリアンヌ・フェイスフルの「ディス・リトル・バード」(1965年)、ポール・リヴィア&ザ・レイダーズの「インディアン・リザベーション」など群を抜いて素晴らしいカントリー・ヒット曲で知られる。ラウダーミルクの冥福を心から祈りたい。

Oct 04 2016

ザディコ音楽の伝道師Buckwheat Zydecoが死去

アコーディオン奏者/シンガーソングライターのバックウィート・ザディコ(本名スタンリー・デュラル・ジュニア)が肺癌のために他界した。享年68歳。ルイジアナ出身のミュージシャンだったザディコは、友人のクリフトン・シェニエと共にザディコ・ミュージックを一般大衆に広める中心的な役割を果たした。地元で有名になったザディコのパワフルで楽しいパフォーマンスの評判が口コミで広まり、1987年にメジャーレーベルのIslandと契約。その後はグラミー賞にノミネートされ、U2やエリック・クラプトンなど多数のアーティストと共演し、1996年のアトランタオリンピックでは世界のオーディエンスの前で演奏した他、世界各地のフェスティバルにも出演した。最後のアルバム『レイ・ユア・バーダン・ダウン』には、ロス・ロボスのスティーブ・ベルリン、トロンボーン・ショーティ、JJ・グレイ、オールマン・ブラザーズのウォーレン・ヘインズらがゲスト参加した。ザディコの冥福を心から祈りたい。

Oct 01 2016

Ernie Cruz Jr.が海で溺死

ハワイアン・ミュージックの偉大なアーティスト、アーニー・クルーズ Jr.が他界した。享年56歳。ライフガードが波打ち際から100mほどの海中でクルーズの遺体を発見し、死因は溺死とみられている。クルーズはカアウ・クレーター・ボーイズのメンバーとして有名になった。大ヒット曲「ユー・ドント・ライト」をはじめ、ハワイで大人気を博したバンドの作品は日本でもリリースされた。アーニーの父、兄弟のジョンとガイも有名なミュージシャンである。2001年にリリースされたアーニーのソロ・アルバム『ポートレイツ』は、ナ・ホク・ハノハノ賞で2部門を受賞した。アーニーの冥福を心から祈りたい。

Sep 30 2016

Y&T のLeonard Hazeが死去

Y&Tのドラマー、レオナルド・ヘイズが肺疾患のために他界した。享年61歳。1973年に結成されたY&Tの当初のバンド名は、ビートルズのアルバムからとったYesterday and Todayだった。ちなみに、日本の有名メタルバンド、アースシェイカー(Earthshaker)のバンド名はY&Tのアルバムのタイトルからとったものである。1987年にY&Tを脱退したヘイズは、ディープ・パープルのヴォーカル、イアン・ギランのツアーにドラマーとして参加した他、自身のバンドであるヘイズ・エクスペリエンスで活動した。Y&Tと良好な関係を保ったヘイズは特別な時に演奏に参加し、来年に公開されるY&Tのドキュメンタリー映画に多大な貢献をした。ヘイズの冥福を心から祈りたい。

Sep 14 2016

追悼:偉大なジャズ・エンジニアRudy Van Gelder

ジャズミュージックの名エンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーが他界した。享年91歳。ゲルダーは、名盤『至上の愛』を含むジョン・コルトレーンの作品をはじめ、ハービー・ハンコックの『Maiden Voyage(邦題:処女航海)』、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』、ホレス・シルヴァーの『ソング・フォー・マイ・ファーザー』、そしてマイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクのヒット・アルバムを手がけてきた。Blue Note Recordsの作品が最も良く知られるが、CTI、PrestigeやSavoyといったレーベルとも仕事をしていた。ゲルダーの冥福を心から祈りたい。

Aug 31 2016

ボーイズ・バンドの生みの親Lou Pearlmanが死去

数々のボーイズ・バンドを世に送り出したルー・パールマンが獄中で他界した。享年62歳。パールマンは、従兄弟のアート・ガーファンクルを通じて音楽業界への道を進んだ。ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックが巨万の富を生み出したことに魅了されたパールマンは、1993年にタレント発掘コンテストを主催し、後にバックストリート・ボーイズになるメンバーたちと出会った。彼らはミリオンセラーのヒットを飛ばすボーイズ・バンドへと急成長し、勢いに乗ったパールマンはNSYNCやLFOをプロデュースした。しかし、パールマンが利益の大半を着服するためにあらゆる手段を使っていることを知ったバンドは彼の元を去り、彼とビジネスをしていたアーティストのほとんどが訴訟を起こした。さらに、ボーイズ・バンドの複数のメンバーとパールマンが肉体的関係を持っているという噂が広まり、体格のいいブロンドのボーイズを好んだパールマンは彼らに自分のことを“ビッグパパ”と呼ばせたという。彼の嗜好を認識している者たちは存在したが、実際に罪に問われることはなかった。しかし、彼のビジネスに関する捜査から、パールマンが設立したTrans Continentalという旅行会社に出資した約2,000人の投資家に詐欺を働いていたことが明らかになる。逮捕されることを知ったパールマンはバリ島へと逃亡したが結局は捕まり、多岐に渡る罪を認めて懲役25年の刑に処せられた。パールマンが関わったボーイズ・バンドのメンバーの多くが彼の死について如才ないコメントを発表し、決して善人ではなかった彼だがショービジネスでの出発点を与えてくれた人物として敬意を表している。アーロン・カーターは“カルマは存在する”というリアルなコメントを出している。

Aug 23 2016

ジャズ・ミュージシャンのBobby Hutchinsonが死去

素晴らしいジャズ・ヴィヴラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンが肺気腫のために他界した。享年75歳。ハッチャーソンは、長い音楽人生の中でエリック・ドルフィー、ソニー・ロリンズ、ハービー・ハンコック、マッコイ・タイナーなど数多くの巨匠たちと共演した。カリフォルニア州パサデナで育った彼は、ジャズを演奏するためにニューヨークに移住したがタクシーの運転手として生計を立てていた。その後、サンフランシスコでの生活を経て、モンタナ州の海辺にある静かで小さな町に居を構えた(この町の名は、彼が1975年にBlue Noteからリリースしたアルバムのタイトルになっている)。ハッチャーソンの冥福を心から祈りたい。