Category: R.I.P.

Jul 29 2016

マルチなミュージックマンSandy Pearlmanが死去

プロデューサー、作曲家、音楽ライター、レコードレーベルの重役など多彩な顔を持っていたサンディ・パールマンが癌との闘病の末に他界した。享年72歳。パールマンは、ブルー・オイスター・カルト、ザ・ディクテイターズ、ザ・クラッシュ(『ギブ・ゼム・イナフ・ロープ』)、ドリーム・シンジケート、マハヴィシュヌ・オーケストラなど多様なアーティスト達をプロデュースしてきた。キャリア初期はアメリカの音楽雑誌Crawdaddy Magazineのライターとして活動していた。その後、ソフト・ホワイト・アンダーベリー(後のブルー・オイスター・カルト)のマネージャーとプロデューサーを兼任し、コロムビアの社長だったクライヴ・デイヴィスを彼らと契約させた。また、1979年から83年まではブラック・サバスのマネージャーも担当した他、初期のデジタル・ミュージック小売業者だったeMusicの副社長もつとめていた。パールマンの冥福を心から祈りたい。

Jul 25 2016

SuicideのAlan Vegaが死去

革新的なサウンドでテクノミュージックやロックに多大な影響をもたらしたといわれるロックデュオ、スーサイドのアラン・ベガ(本名アラン・バーモウィッツ)が7月16日に他界した。享年78歳。1970年に結成されたスーサイドは、当時は一部の間でのみ熱狂的に支持されたが、後に彼らの音楽の影響力が高く評価されるようになった。ブルックリン・カレッジで物理と美術を専攻したベガは画家として絵や光の造形作品を製作していた。しかし、ワイルドで挑戦的なザ・ストゥージズのパフォーマンスに感銘を受けて音楽の道に入ることを決意、マーティン・レブ(本名マーティン・レバーバイ)とスーサイドを結成した。活動初期のスーサイドは、マーサー・アート・センター、CBGB’s、マクシズ・カンサス・シティで演奏したが、喝采を浴びる夜もあれば、時にはブーイングを受ける夜もあった。また、1987年には渋谷ライブインに出演した。ある評論家は彼らの音楽を「まるでエルヴィス・プレスリーとクラフトワークがコラボしたホラー映画のサントラの様だ」と表現している。代表曲は、「ゴーストライター」(ザ・ホラーズやゴリーズにカバーされた他、MIAとLCDサウンドシステムがサンプリングに使用)、「ドリーム・ベイビー・ドリーム」(ブルース・スプリングスティーン、ネナ・チャリーがカバー)、「ジョニー」(ピーチズがカバー)、そして伝説の「フランキー・ティアドロップ」などがある。ベガの冥福を心から祈りたい。

Jul 04 2016

名ベーシストのRob Wassermanが死去

偉大なアップライト・ベーシストのロブ・ワッサーマンが6月29日に他界した。享年64歳。死因は健康上の問題らしいが詳細は公表されていない。ワッサーマンは、デビッド・グリスマン、オインゴ・ボインゴ、グレイトフル・デッドのボブ・ウェア、ルー・リード、エルヴィス・コステロ、リッキー・リー・ ジョーンズをはじめとする多数のアーティストと演奏してきた。代表作にはソロ名義で発表した『ソロ』、グラミー賞3部門にノミネートされて1部門を受賞した『デュエッツ』や『トリオス』などがある。ワッサーマンの冥福を心から祈りたい。

Jun 17 2016

名プロデューサーのChips Momanが死去

ソングライター/プロデューサー/サイドマンのチップス・モーマンが他界した。素晴らしい功績を残したことで知られるモーマンは、ロカビリー界の大御所ジョニー・バーネットやジーン・ヴィンセントらとギターで共演し、不朽の名曲「ドゥ・ライト・ウーマン、ドゥ・ライト・マン」および「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」をダン・ペンと共作した他、エルヴィス・プレスリーのヒット曲を何曲も手がけ、スタックス・レコード時代のカーラ・トーマスとウィリアム・ベルのヒット曲をプロデュースした。また、アレサ・フランクリンとはヒット・セッションを行い、数多くの一流ミュージシャンがヒット曲をレコーディングしたスタジオ「アメリカン・サウンド」の経営者でもあった。モーマンの冥福を心から祈りたい。

May 23 2016

元MegadethドラマーのNick Menza、死去

メガデスの元ドラマー、ニック・メンザが51歳で死亡した。現在のバンドOHMがロサンジェルスのベイクト・ポテトで3曲目を演奏している間に心臓発作で倒れた。メンザがメガデスにいたのは1989年から1998年だが、2014年のレコーディングには参加している。その際にバンドに戻らないか打診されたが、条件が合わないとして断っている。昨年参加したOHMには、もう一人元メガデスのクリス・ポーランドが在籍している。

May 23 2016

テキサスのシンガー、Guy Clarkが逝去

テキサスをベースに活動していたシンガー・ソングライターのガイ・クラークが74歳で死亡した。クラークは長い間、パフォーマーとしてはそれなりの成功でしかなく、ソングライターとしての知名度の方が高かった。2013年に『My Favorite Picture of You』がチャートインして、グラミー賞を取るまではトップ40を超えたこともなかった。
しかし、彼が他の歌手に書いた多くの曲がヒットしている。ジェリー・ジェフ・ウォーカーがレコーディングしたガイの曲、「LA Freeway」と「Desperados Waiting For a Train」のヒットが、ガイのキャリアのきっかけになった。また、ロドニー・クローウェルやリッキー・スカッグスに書いた曲はカントリーのナンバー1ヒットになっている。彼の曲は、ジョニー・キャッシュ、ジミー・バフェット、ジョン・デンバーやエミー・ルー・ハリスなどがレコーディングしている。

Apr 08 2016

カントリー歌手のMerle Haggardが死去

アメリカに最も愛されたカントリー歌手のマール・ハガードが79歳で死亡した。ハガードは辛い生い立ちで、20歳になる前に投獄されたりもしたが、音楽を通じて更生した。飾り気のない歌い方で、個人的で、勤勉で、酒びたりの人生や、愛と失恋について歌った。「Mama Tried」「Tonight the Bottle Let Me Down」「Sing Me Back Home」などの曲は、カントリーの垣根を越えて愛され、バーズ、グレイトフル・デッド、キース・リチャーズ、ジョン・バエズやエヴァリー・ブラザーズなど多くのアーティストにカバーされている。安らかに眠れ。

Mar 18 2016

ELPのKeith Emerson、死去

プログレッシブ・ロック・バンドのエマーソン・レイク・アンド・パーマー(以下ELP)のキーボード奏者だったキース・エマーソンが、71歳、サンタ・モニカの自宅で亡くなった。死因については明らかにされていない。ELPの最後のライブパフォーマンスは2010年の40周年記念ツアー。最後のアルバムは、1994年に発売された『In the Hot Seat』だった。
エマーソンが最初に名を挙げたのは、ザ・ナイスというバンドのメンバーとして。1970年にELPを立ち上げた。ELPのアルバム、最初の5枚は全てトップ20に名を連ねている。
エマーソンは、クラシック曲の演奏でも知られ、アーロン・コープランド、バルトーク・ベーラ、J.S.バッハ、レナード・バーンスタイン、モデスト・ムソルグスキーなどの曲を、ロック・スターらしいパフォーマンスで、スピンしながら、また楽器にナイフを突き立てたりしながら演奏した。エマーソンはモーグ・シンセサイザーの先駆者としても有名で、一部では、ロックバンドのツアーにシンセサイザーを最初に持ち込んだと言われている。コルグ社のPS-3000を最初の多重音声シンセサイザーと認めた人物。

Feb 19 2016

Vanity,腎不全の為他界

80年代のセックスシンボル、ヴァニティことデニース・マシューズが、57歳で、腎不全の為亡くなった。歌手、モデル、女優だった彼女はカナダでキャリアをスタートし、1980年に彼女のステージネームをつけたプリンスと出会う以前は日本でモデル業に勤しんでいた。もともとは、ヴァニティ6というセクシーでファンキーな女性トリオの一員だったが、1982年に「Nasty Girl」でヒットを飛ばし、プリンスのガールフレンドとしてローリングストーン誌の表紙にも現れている。プリンスの映画『Purple Rain』にも出演予定だったが、プリンスと破局したことで降板し、アポロニア・コテロがその役を務めた。その後ヴァニティはモータウンで2枚のアルバムを作り、1988年にはプレイボーイ誌の表紙にも登場、幾つかのマイナー映画にも出演しているが、その後キャリアは停滞。重度のコカイン中毒となったものの、1990年代には更生して、再生派クリスチャンとなった。彼女は一時オークランド・レイダーズのフットボール選手で、現在は誘拐・拷問・殺人などで服役中のアンソニー・スミスと結婚していた。
ヴァニティよ安らかに。

Feb 15 2016

Dan Hicksが肝臓癌で他界

シンガー・ソングライターのダン・ヒックスが肝臓癌で他界。74歳だった。
ヒックスは非常に長い間、フォーク・ジャズというユニークでユーモラスなスタイルで演奏する人気歌手。
彼は初め、カルト・バンドと呼ばれるザ・シャーラタンズのドラマーとして有名になった。ザ・シャーラタンズはヴィンテージのダンディな衣装に身を包み、LSDでハイになった状態で演奏していたことで知られている。アルバムは残さなかったものの、早くから人気の出たバンドで、ジェファーソン・エアプレインが前座を務めたこともあった。
1967年にヒックスは自分のバンド、ザ・ホット・リックスを立ち上げ、ヒックスのオリジナル曲をスウィング・ジャズ・スタイルで演奏するようになる。ホット・リックスは4枚のアルバムをリリースしたが、そこそこの売り上げにしかならなかった。しかし、ヒックスは比類のないエンターテイナーとして人気を博した。ヒットシングルこそなかったものの、彼はローリング・ストーン誌のカバーに2回登場している。バンドの3枚目のアルバム『Striking It Rich』は一種のブレーク・スルー盤で、ヒックスの特に人気の曲「Canned Music」「You Gotta Believe」、そして彼のロマンティックな名曲「I Scare Myself」を含む。1973年にヒックスがバンド・リーダーでいることに疲れたとバンドは解散し、彼は自分が一匹狼であることに気づいたという。その後、ヒックスは多くのソロ・アルバム、またはザ・アコースティック・ウォリアーズというバンドでもアルバムを発表したが、大したヒットにはならずに終わった。しかし、ライブ・パフォーマーとしては人気が高かった。2000年には、「Beatin’ the Heart」というアルバムでカムバックを果たした。このアルバムには、ヒックスのファンだったトム・ウェイツ、ベット・ミドラー、ブライアン・セッツァー、エルヴィス・コステロやリッキー・リー・ジョーンズなども参加している。日本では、1989年、2005年、2010年と3回公演していた。
偉大なるダン・ヒックスよ、安らかに。

Feb 09 2016

元Tower of PowerのMic Gilletteが死去

タワー・オブ・パワーの初期トランペット奏者のミック・ジレットが他界した。享年64歳。カリフォルニア州オークランドを拠点とするタワー・オブ・パワーがデビュー・アルバムを発表した1970年以前からメンバーだったジレットは、バンドの素晴らしいホーンセクションを支えた中心人物だった。また、ロッド・スチュワート、ヒューイ・ルイス、エルトン・ジョン、クインシー・ジョーンズ、ローリング・ストーンズなど多数のアーティストと共演してきたことでも知られる。1984年からは妻と娘と時間を過ごすためにツアー生活から退き、1998年にベイエリアを代表するもうひとつのホーン・バンド、サンズ・オブ・チャンプリン(シカゴのフロンマンだったビル・チャンプリンが結成)に加入した。この他には、ドゥービー・ブラザーズ、コールド・ブラッド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、サンタナとツアーおよびレコーディングを行なった。慈善活動にも熱心だったジレットは、子供たちに音楽教育を提供するための資金集めを中心に行なっていた。2009年に25年ぶりにタワー・オブ・パワーに再加入したが、健康上の問題を理由に約1年半後に脱退を余儀なくされた。ジレットの冥福を心から祈りたい。

Feb 08 2016

追悼:Dale “Buffin” Griffin

モット・ザ・フープルのドラマー、デイル・バフィン・グリフィンが先月17日に早期アルツハイマー病による合併症ために他界した。享年67歳。デビュー当初はカバー曲を中心に演奏していたモット・ザ・フープルは、シンガーソングライター系の楽曲とストーンズの様なブルースをベースにしたロックという異色の組み合わせが特徴的だった。バンドは定評のあるライヴで確固たるファン層を築いたが、初期に発表した4枚のアルバムはいずれも商業的にはふるわなかった。1972年にバンドは解散を決定、しかし彼らのファンだったデヴィッド・ボウイが楽曲の提供とアルバムのプロデュース、そして自身のマネジメント会社への移籍を申し出た。ボウイが彼らに提供したシングル「すべての若き野郎ども」はUKチャート3位を獲得し、USチャートでもバンドにとって初のトップ40入りを達成した曲となった。続いてリリースされたアルバム『モット』はさらなる成功をおさめ、モット・ザ・フープルは一躍グラムロック界の中心的存在として注目を浴びた。バンドの最後のアルバムはバフィンがプロデュースを手がけたライヴ・アルバムで、1974年11月に解散することを発表するタイミングに合わせてリリースされた。解散後、バフィンはハノイ・ロックス、ニュー・モデル・アーミー、カルトなど他のバンドをプロデュース。また、ジョン・ピールがDJをつとめるBBCのラジオ番組の専属プロデューサーもつとめた。58歳という若さでアルツハイマー病を発症したバフィンは、2009年にモット・ザ・フープルが再結成ライヴを行なった時にはすでに容態が悪化しており、アンコールのみに出演した。

Jan 15 2016

R&B シンガーのOtis Clayが死去

R&Bシンガーのオーティス・クレイがシカゴで他界した。享年73歳。米ミシシッピー育ちのクレイは、ブルースとゴスペルの影響を強く受けた素朴なサザンスタイルで知られる。1965年に『フレームス・イン・ユア・ハート』でデビューし、2007年にゴスペル・アルバム『ウォーク・ア・マイル・イン・マイ・シューズ』でグラミー賞を受賞した。彼が作曲を手がけたR&Bソングはそこそこにヒットしたが、唯一ポップチャートにランクインしたのは、マッスル・ショールズのFAMEスタジオでレコーディングし、1968年にリリースしたサー・ダグラス・クインテットの曲「シーズ・アバウト・ア・ムーバー」のリメイク・バージョンだった。ボブ・シーガーによるクレイの代表曲「トライン・トゥ・リヴ・マイ・ライフ・ウィズアウト・ユー」のカバー・バージョンは1981年にチャートトップ10にランクインした。また、ゴスペル調の曲「ウェン・ザ・ゲイツ・スウィング・オープン」はアメリカのお葬式で流れる人気のBGM曲として知られる。ブルースの殿堂入りを果たしたクレイはヨーロッパでも高い人気を集め、日本では2枚のライブ・アルバムをレコーディングした。クレイの冥福を心から祈りたい。

Jan 09 2016

音楽業界の重鎮Robert Stigwoodが死去

ミュージックビジネスの伝説ロバート・スティグウッドが他界した。享年81歳。最盛期のビージーズのマネジメントを手がけたことで最も良く知られるサテンウッドは、クリームやエリック・クラプトンも手がけた他、ミュージカルの仕事にも勢力的に関わっていた。サテンウッドの冥福を心から祈りたい。

Dec 21 2015

偉大なシタール奏者Ravi Shankarが死去

インドのシタールの巨匠ラヴィ・シャンカールが他界した。享年92歳。ジョン・コルトレーン(後にコルトレーンは息子をラヴィと名付けた)をはじめ、ジョージ・ハリソンやデヴィッド・クロスビーの師匠をつとめるなど、シャンカールは素晴らしいキャリアを築いてきた。1971年にはバングラディッシュを支援する草分け的なチャリティー・ロックコンサートに出演した。多くの女性と浮名を流したシャンカールには、2人の娘ノラ・ジョーンズとアヌーシュカ・シャンカールがいる。テキサス育ちのノラ(母スー・ジョーンズの姓を使用)は2003年にグラミー賞5冠を達成。ノラの異母妹アヌーシュカはシタール奏者として父と共に演奏活動を行い、2003年のグラミー賞にノミネートされた。ラヴィ・シャンカール自身は映画『ガンジー』の音楽などでグラミー賞を3回受賞している。シャンカールの冥福を心から祈りたい。

Dec 06 2015

偉大なソングライターP.F. Sloanが死去

1960年代のLAのポップ・シーンの立役者として知られるP.F.スローンが癌のために死去した。享年70歳。懸命な努力にも関わらずソロ・アーティストとしての成功を手に入れることはなかったスローンだが、尊敬されるサイドマンおよびソングライターとして生涯の幕を閉じた。スローンは若干16歳でその当時業績が絶好調だった音楽出版社スクリーン・ジェムズにソングライターとして採用された。その一方で、少なくとも7つの名義でソロ作品をリリースしたがいずれも商業的成功を収めることはなかった。その後、60年代の超人気サーフデュオのジャン&ディーンにバッキングヴォーカルとギタリストとして参加。大転機が訪れたのは、作曲を手がけたフォーク・シンガー、バリー・マクガイアの反戦歌「イヴ・ディストラクション(邦題:「明日なき世界」が全米1位を獲得した1965年だった。その他にも、タートルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、フィフス・ディメンション、グラス・ルーツ、サーチャーズ、ジョニー・リバーズのヒット曲「シークレット・エージェント・マン」(後にRCサクセッションがカバー)など多数のアーティストの曲を手がけた。実際、多くの楽曲のメインリフはスローン本人が演奏している。また、作品のクレジットに名前は載っていないが、ママス&パパスのヒット曲「カリフォルニア・ドリミーング(邦題:「夢のカリフォルニア」)」のギターイントロ部分を作曲したことでも知られる。しかし、アーティストとして成功できないことに悩み苦しんだスローンはアルコール中毒と精神病に陥り、彼自身いわく人生の20年から25年間を“緊張性昏睡状態”で過ごした。90年代にはアルバム『フロム・ア・ディスタンス』(当初はパイオニアから日本限定でリリース)を発表して、ささやかなカムバックを果たした。スローンの冥福を心から祈りたい。

Dec 06 2015

トランペット奏者のCynthia Robinsonが死去

先月23日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの創設メンバーの1人でトランペット奏者のシンシア・ロビンソンが癌のために死去した。享年69歳。シンシアは、従兄弟のラリー・グラハムをはじめ、ジョージ・クリントンやプリンスらとの共演でも知られる。主にトランペット奏者として活躍したが、ヒット曲「ダンス・トゥ・ザ・ワールド」にソプラノで参加するなど、優れたヴォーカリストとしても活動した。シンシアの冥福を心から祈りたい。

Nov 24 2015

Allen Toussaintが死去

ニューオリンズをベースに活動を続けていたシンガーソングライターのアラン・トゥーサンが77歳で死亡した。
ミュージシャンとしては控えめな成功ではあったが(2006年のエルビス・コステロとの共同アルバムを含む)、それよりもソングライター、ピアノ伴奏者としてよく知られている。
彼の主な作品として著名なのは、リー・ドーシーの「Get Out of My Life Womam」「Holy Cow」「Ride Your Pony」「Working In a Coal Mine」や「Yes We Can」。他にも、彼の曲をレコーディングしたのはローリング・ストーンズ(「Fortune Teller」「Pain In My Heart」)、リトル・フィート、ザ・バンド、ロバート・プラント、リンゴ・スター、ボズ・スキャッグス、ロバート・パーマー、フランキー・ミラー、ジョー・コッカー、ジェリー・ガルシア、イルマ・トーマス、ギャラクティック、ドクター・ジョン、ボニー・レイット、アーロン・ネヴィル、オーティス・レディング、ジョニー・ウィンター、そしてトゥーサンの曲「Southern Nights」で全米ナンバーワンヒットになったグレン・キャンベルなど。
オバマ大統領も、ポジティブなメッセージを伝えるテーマ曲として「Yes We Can」を使った。
また、彼の曲はヒップホップでも何度もサンプリングされている。
音楽の巨人アラン・トゥーサン、安らかに。

Nov 22 2015

SFの伝説的エンターテイナーCarol Dodaが死去

60年代のサンフランシスコを象徴するエンターテイナーのキャロル・デューダが他界した。享年78歳。1964年、サンフランシスコのノースビーチ地区のCondor Clubを舞台にトップレスで踊ったキャロルのセンセーショナルなニュースは国際メディアのトップ記事を飾った。1965年にわいせつ容疑で逮捕されたが、裁判官が彼女のパフォーマンスを“社会的基準に則している”と判断したために無罪放免となった。この判決は、“何でもあり”な町で有名なサンフランシスコの風潮をさらに加速させた。後にバストサイズを75Dから110Eにする豊胸手術を受けたキャロルはますます有名になっていった。その豊満すぎる上半身だけでなく、機転のきくウィットに富んだキャラクターも彼女の魅力の1つだった。また、その活躍はクラブだけに留まらず、ポップ・ロック・バンドのザ・モンキーズ主演の『ヘッド』をはじめ、数々のB級映画にも出演した。キャロルの逮捕事件の直後から、ノースビーチにはトップレスダンサー達が続々と出現するようになり、その界隈をセレブが出入りするナイトライフのメッカとして繁栄させた。様々な水泳のフォームを模倣したゴーゴースタイル・ダンスや天井から吊り下げられたグランドピアノの上で踊りながら降りてくるキャロルの異色なスタイルのパフォーマンスは評判をよんだ。クラブのバンドリーダーのボビー・フリーマンは、彼女のダンスのコンセプトをテーマにした「カモン・アンド・スウィム」でチャート5位を獲得。同曲は当時クラブの従業員でまだ20歳だったスライ・ストーンが書いたものだった。ちなみに、1965年のサンフランシスコといえば、ジェファーソン・エアプレインのマーティー・バリンと仲間らがMatrix Clubを開業するなど、“サンフランシスコ・サウンド”が台頭した時期でもあった。Condor Clubはヒッピームーブメントやビート文学の発祥地として有名な書店City Lightsのほぼ対面に位置していた。キャロルの冥福を心から祈りたい。

Nov 03 2015

追悼:Three Dog NightのCory Wells

スリー・ドッグ・ナイトのコリー・ウェルズが他界した。享年74歳。バンドは60年代と70年代にかけて、「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」、「ママ・トールド・ミー・ノット・トゥ・カム」、「イージー・トゥ・ビー・ハード」など、21曲をヒットチャートの上位40位に送りこんだ。バンドのコンセプトは、3人のリード・ヴォーカリスト(ウェルズ、ダニー・ハットン、チャック・ネグロン)が最高の曲を歌うというものだった。彼らの成功を通して有名になったソングライターには、ランディ・ニューマン、ハリー・ニルソン、レオ・セイヤー、ポール・ウィリアムズ、ジョン・ハイアット、ローラ・ニーロなどがいる。しかし、バンドはネグロンが重度のヘロイン中毒だったことが主な原因で解散。後にヘロインから足を洗ったネグロンは、素晴らしい自伝「スリー・ドッグス・ナイトメア」を発表した。ウェルズは、スリー・ドッグス・ナイトに加入する前は俳優としてそこそこの成功を収めていた。バンドの解散後はソロ作品を発表したが上手くいかず、最終的にはハットンと共にスリー・ドッグ・ナイトとしてオールディーズ界で活動した。

Oct 24 2015

追悼:The StoogesのSteve Mackay

今月11日、ストゥージズのサックス奏者スティーヴ・マッケイが敗血症のために他界した。享年66歳。バンドの正式メンバーだったことは一度もないマッケイだが、1970年のセカンド・アルバム『ファン・ハウス』に参加して以降、不定期的にレコーディングやツアーに参加し、フジロックでもバンドと共に来日している。マッケイは影響を受けたアーティストにジョン・コルトレーン、スタン・ゲッツ、キング・カーティスらをあげている。マッケイの死により、麻薬がらみのあらゆる問題を抱えてきたイギー・ポップだけが初期ストゥージズの生存メンバーとなった。デイヴ・ザンダー・アレクサンダーは1975年に27歳という若さでアルコール中毒が原因の膵臓種で他界。ロン・アシュトンは2009年に、続いてスコット・アシュトンも2014年に心臓発作で他界。伝説のサード・アルバム『ローパワー』から加入したギタリストのジェームス・ウィリアムソンだが、プロデューサーに転身するためにバンドを脱退した。この後、ヘロイン中毒を克服したウィリアムソンは電子工学技術者になり、Sonyの重役を数年間に渡ってつとめた。Sonyを早期退職後、2009年にストゥージズに再加入した。スティーヴ・マッケイの冥福を心から祈りたい。

Oct 24 2015

Frank Zappaの妻Gailが他界

フランク・ザッパの妻ゲイルが70歳で他界した。死因は公表されていない。ザッパの2人目の妻だったゲイルには、ザッパとの間にドゥウィージル、アーメット、ムーン・ユニット、ディーヴァの4人の子供がいる。ザッパがゲイルと出会ったのは、彼女がLAのWhisky-A-Go-Goの秘書として働くかたわらで、グルーピーをしていた頃だった。父親が米軍所属の科学研究者という共通点を持っていた2人は瞬く間に意気投合した。ザッパが1993年に癌で他界した後、ゲイルは彼の遺作やビジネスを管理するためにザッパ・ファミリー財団を設立。ザッパの作品を管理する仕事に並ならぬ情熱を注いだゲイルは独特のやり方を貫き、頻繁に奇妙な行動をとった。作品を廃盤になったままにし、ザッパのバンドメンバーをはじめ、彼の音楽をライブで演奏したミュージシャンやフランクを讃えるために開催されたフェスティバルを起訴した。しかし、彼女の主張には法的な根拠がなかったため、実際に裁判にまで発展した事例でも敗訴を繰り返した。ゲイルに代わって、今年初めに息子のアーメットがザッパ・ファミリー財団の管理業務を引き継ぎ、ユニバーサルと共に様々なプロジェクトに着手するようになった。その中には、ザッパが1979年に発表した連作アルバム『ジョーズ・ガラージ』をベースにしたミュージカル、指揮者エサ=ペッカ・サロネンによるザッパ監督の映画『200モーテルズ』のサントラのオーケストラパフォーマンス、Roxyで行なわれたザッパの伝説的なライブをテーマにした映画、そして2017年にはザッパのドキュメンタリー映画が公開される予定だ。

Oct 21 2015

音楽プロデューサーのLarry Rosenが死去

音楽プロデューサー・ピアニストのデイヴ・グルーシンと設立したGRPレコードを6000万ドルで売却し、音楽ダウンロードサイトの草分け的存在となったN2Kを発足させたラリー・ローゼンが他界した。享年75歳。マイアミで隠居生活をおくっていたローゼンだが、ジャズと音楽教育のための活動を精力的に継続していた。

Jul 23 2015

Atlanta Rhythm Sectionの立役者Buddy Buieが死去

プロデューサー/ソングライターのバディ・ビューイが今月18日に他界した。享年74歳。ビューイはフロリダ州ジャクソンヴィル出身のバンド、クラシックスIVのメンバーだったことで最も良く知られる。バンドのシングル「トレーシス」、「ストーミー」、および「スプーキー」はミリオンセラーとなり、大ヒットした60年代以降はバーで演奏される定番曲として愛されてきた。ビューイはクラシックスIVでマネージャーも兼任し、70年代を代表するヒットメーカーのアトランタ・リズム・セクション(元クラシックスIVのメンバー数人が活動し、シングル「シャンパン・ジャム」、「ソー・イントゥ・ユー」、「イマジナリー・ラバー」などがヒット)のマネージャーもつとめた。生涯を通してロック、ポップやカントリーのアーティストのために作曲した300曲以上の多くがチャート入りしている。ビューイの冥福を心から祈りたい。

May 26 2015

故B.B.Kingによせて

5月14日に89歳で他界した偉大なミュージシャンB.B.キングが、米ミシシッピにある自身の博物館(B.B. King Museum)の敷地内に埋葬された。素晴らしいギタリスト/シンガーだったキングは、その温厚、謙虚かつ寛大な人柄で多くのミュージシャンとファンから慕われていた。ミシシッピー生まれのキングは、親戚のブッカ・ホワイトにすすめられたのがきっかけでギターを始めたと言われており、メンフィスの音楽街ビール・ストリートでの演奏活動で有名になった。1952年に「スリー・オクロック・ブルース」が初ヒット曲となったことで人気が拡大。1969年にローリング・ストーンズのオープニングをつとめ、1970年には代表曲となった「ザ・スリル・イズ・ゴーン」でグラミー賞を受賞した。また、ボビー・“ブルー”・ブランド、レイ・チャールズ、エリック・クラプトン、U2、ザ・クルセイダーズ、ボニー・レイットをはじめ多数の一流ミュージシャンらとコラボしたことでも知られる。キングの冥福を心から祈りたい。

Apr 25 2015

名ソウルシンガーPercy Sledgeに追悼

ソウルシンガーのパーシー・スレッジが他界した。享年74歳。1964年に大ヒットしたスレッジの代表曲「ウェン・ア・マン・ラブス・ア・ウーマン」は、スレッジが当時交際していたモデルの恋人が彼の親友と共にLAへ去って行ってしまい、失意のどん底に突き落とされた時にインスピレーションを受けて書いた曲だ。この曲が長年に渡って支持され続けてきているのはその完成度の高さはもちろん、何よりもスレッジの感情が生々しく伝わってくるからだろう。これまでに様々なアーティストにカバーされており、『再会の時(原題:ザ・ビッグ・チル)』や『プラトーン』など多数の主要映画にもフィーチャーされている。こういった代表作以外でも、スレッジは「テイク・タイム・トゥ・ノウ・ハー」など数々のオリジナル・ヒット曲を世に送り出し、「アウト・オブ・レフト・フィールド」、「ザ・ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」や「イット・ティアーズ・ミー・アップ・インサイド」などダン・ペンが書いた曲(スレッジのベスト盤に収録)もレコーディングしている。妻と12人の子供達を残して天国へと旅立って行ったスレッジの冥福を心から祈りたい。

Apr 01 2015

3月の訃報:FreeのAndy Fraserが死去

先月は有名なミュージシャンの訃報が相次いだ月となった。3月16日には、フリーのオリジナルメンバーでベーシストのアンディ・フレイザーが癌とエイズとの長い闘病の末に他界した。ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのメンバーとして有名になったフレイザーは、バンドを脱退後にシンガーのポール・ロジャーズとフリーを結成。2人が共作したシングル「オール・ライト・ナウ」は大ヒット曲となった。フレイザーで活動を始めた頃、フレイザーは15歳、ギタリストのポール・コゾフは17歳、そしてポール・ロジャーズとサイモン・カークは18歳という若さだった。1971年にフリーは解散し(フリーを一番に脱退したフレイザーに代わって日本人の山内テツが加入)、ロジャーズとコゾフはモット・ザ・フープルのミック・ラルフスとバッド・カンパニーを結成。しかし、重度の麻薬依存症に陥ったコゾフは25歳で他界してしまう。その一方で、クリス・スペディングとシャークスを結成したフレイザーは、バンドの人気にも関わらず脱退して作曲活動に専念する道を選んだ。ジョー・コッカー、ロッド・スチュワート、チャカ・カーンやポール・ヤングをはじめとする数多くのアーティストに楽曲を提供し、特にロバート・パーマーの「エヴリィ・カインド・オブ・ピープル」が最も良く知られている。フレイザーの冥福を心から祈りたい。

Apr 01 2015

3月の訃報:Soft Machine/GongのDavid Allenが死去

3月13日、ソフト・マシーンやゴングの創設メンバーで、サイケデリック・ロックを代表するミュージシャンだったデヴィッド・アレンが癌のために他界した。享年77歳。アレンの冥福を心から祈りたい。

Apr 01 2015

3月の訃報:Three Dog Night のJimmy Greenspoonが死去

3月11日にスリー・ドッグ・ナイトのキーボード奏者ジミー・グリーンスプーンが癌のために他界した。享年67歳。1960年代後半から70年代にかけて21曲をトップ40入りさせたバンドのヒット曲の中でも、特に大ヒット曲「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」が有名だ。グリーンスプーンの冥福を心から祈りたい。

Mar 21 2015

TotoのMike Porcaroが死去

1982年から2007年までトトのベーシストをつとめたマイク・ポーカロがALSのために他界した。トトの創設者であるマイクの兄ジェフは1992年に他界。弟のスティーヴは現在もトトのメンバーとして活動している。1977年に結成されたトトはこれまでに350万枚以上のアルバムセールスを記録しており、近日中には新作アルバム『XIV』をリリースする予定だ。マイクの冥福を心から祈りたい。