ロックの伝説的ミュージシャン、ロッキー・エリクソンが71歳で他界した。ロッキーが初めて世に出たのは、テキサス州オースティンをベースに活動するサイケデリックバンド、13th フロアー・エレベーターズのシンガーとメインの作曲者として。このバンドはロッキーが19歳だった1966年の「You’re Gonna Miss Me」1曲しかヒットと呼べる曲を残さなかった。彼らのアルバムは、ロック史上初のサイケデリックとジャケットに明記されたアルバムと言われている。13th フロアー・エレベーターズのサウンドはユニークなもので、フルートのように演奏され、鳩のような音を出すエレクトリック・ジャグも使われた。このバンドはマリファナを含む幻覚系麻薬の信奉者で、警察にもマークされていた。1968年、ロッキーは統合失調症と診断され、治療を受ける。1969年にはマリファナ所持で逮捕、当時これは10年の懲役刑となるはずだった。投獄を避けるため、彼は精神的無能力であったため無罪と主張。結局彼は収監されず、精神病院に入院、そこから彼は何度も脱走している。その後彼は電気ショックやクロルプロマジンなどの治療を受けるが、状況は変わらず、むしろ悪化させた。その後彼はブリーブ・エイリアンというバンドを結成、マイナー・ヒット「Two-Head Dog」を飛ばす。この曲は歌詞に「ホワイトハウスの中にクレムリンが二つ頭の犬といる」とあり、一部ではドナルド・トランプを予言する曲とも言われている。
彼の非常に興味深い歌詞(「You Don’t Love Me Yet」のようにロマンティックなものから、彼の妄想やモンスターに対する興味からできた「I Walked With A Zombie」など)や彼の健康状態に対する不安などから、バットホール・サーファーズ、ダグ・サーム、ナーブブレーカーズ、ZZトップらテキサスのミュージシャンが彼を支えた。ロッキーはまた、CCRのスチュー・クックともレコーディングしている。
アメリカのシンガー、女優で動物愛護活動家だったドリス・デイがカリフォルニア州カーメル・ヴァレーの自宅で死去した。97歳だった。本名ドリス・カッペルホフの彼女がドリス・デイとして最初に日の目を見たのは1939年、ビッグ・バンドのシンガーとしてだった。彼女は1位を獲得した1945年のヒット曲「Sentimental Journey」を含め多くのヒット曲を歌った。1948年には『Romance on the High Seas(邦題:洋上のロマンス)』で映画デビューを飾ると、その後はロック・ハドソン、クラーク・ゲーブル、ケーリー・グラント、ジェームズ・キャグニーやフランク・シナトラなどのトップ俳優と次々共演した。1989年にはグラミーの生涯功績賞を受賞。彼女は明るいロマンティック・コメディを得意としており、元気できちんとしたイメージでよく知られている。彼女は4度結婚しており、そのうち2回はミュージシャンとの短いものだったが、その後彼女のマネージメントや映画のプロデューサーをしたマーティン・メルチャーと結婚、最後にはレストランのメートル・ドテルだったバリー・コムデンと結婚した。1968年にメルチャーが他界した際、彼が管理していたはずのドリス・デイの資産はほぼ亡くなっていたのが発表された。彼女が1968年から73年の間、あまり希望していなかったテレビ番組の司会を彼の要求に応えて引き受けたのもこの資産状況の影響だったと言われている。80年代半ば頃から、彼女はエンターテイメント業界からほぼ引退していた。彼女は動物愛護活動家として熱心に活動していて、1971年には他の多くの女優たちと反毛皮運動を始める。多くのアニマル・シェルターの資金を提供し、動物の権利の為にキャンペーン活動もしている。彼女の最後の夫は、実際彼女は彼よりも動物たちを大切にしていると言っていた。彼女は最初の夫との間に1子をもうけたが、彼はコロムビア所属の音楽プロデューサー、テリー・メルチャーとしてよく知られていて、バーズ、ポール・リビア、レイダーズやビーチ・ボーイズと仕事をしている。彼についてよく知られているのは、彼がカルト・リーダーであるチャールズ・マンソンに興味を持ったものの、最終的には一緒に仕事をすることを拒んだことだろう。その後、マンソンと彼のカルトのメンバーは以前メルチャーが借りていた家に当時住んでいた女優のシャロン・テートを殺害したことで知られている。テリーはまた、スライ・ストーンと契約した事でも知られている。スライ・ストーンはドリス・デイのヒット曲で、彼女の番組のテーマソングでもあった「Que Sera Sera」をカバー。長年にわたり、ドリス・デイとスライ・ストーンが恋愛関係にあるのではと囁かれていたが、これについては証拠はない。
本名ロジャー・チャーリー、ザ・ビートのランキング・ロジャーが、癌で56歳で他界した。アメリカでは法的な問題からイングリッシュ・ビートとして知られているこのバンドは「Mirror In the Bathroom」「Too Nice To Talk To」など多くのヒットを飛ばし、スモーキー・ロビンソンのカバー「Tears of a Clown」でも知られている。ザ・ビートは若かりしR.E.M.を前座としてアメリカツアーも行なっている。ビートが解散したのち、ロジャーは彼の子供の頃のバンド友達、デイヴ・ウェイクリングとジェネラル・パブリックを結成。また、彼はスティングともコラボレーションをしていた。
伝説的なサーフ・ギタリストのディック・デイル、本名リチャード・モンスールが3月16日、81歳で、長い癌との戦いの末他界した。ディック・デイルは、中東的な音階、ハードで確実なスタッカートのピッキング・スタイルや、革新的なリヴァーブの使い方により、サーフ・ミュージックというジャンルを確立する際、多大な影響を与えた。実際、彼はフェンダーがアンプを開発する際協力、彼のハイ・ヴォリュームなスタイルをサポートするに足る物を作らせている。彼はレバノンにルーツを持ち、彼の叔父により打楽器のタラバキや絃楽器ウードの演奏を教わった事でのちの音楽スタイルに影響を受けたという。彼は左利きなのに右利き用ギターを弾く事で、ギターを上下逆に演奏していた。1961年に発表したインスト曲のヒット「Let’s Go Tripping」が最初のサーフ・レコードとする人も多い。彼の曲で最も有名なのは「ミザルー」だが、これはタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』に使われた。本当に唯一の才能、ディック・デイルよ、安らかに。
ブリティッシュ・パンクバンドのバズコックスに所属していたピート・シェリーが63歳で他界、心臓発作だという。セックス・ピストルズに影響されたこのバンドは1976年にボルトンで結成され、自分のレーベルを立ち上げた最初のパンクバンドだ。メジャーレーベルからのデビューシングル「Orgasm Addict」はヒットはしなかったもののカルト的な人気を博している。この後にリリースした「What Do I Get」はトップ50にランクイン、「Ever Fallen In Love (With Someone You Shouldn’t)」は12位になった。バズコックスが1981年に解散すると、シェリーはソロ活動を続ける。よりエレクトロニックなサウンドに近づいてから発表した「Homosapien」は彼のバイセクシュアリティについて言及し、注目された。アメリカではチャートにランクインしたものの、BBCでは放映禁止となった。安らかに。
ジェファーソン・エアプレーンの共同創立者だったマーティ・バリンが76歳で死亡した。もう一人の創立者、ポール・カントナーもすでに他界している。ジェファーソン・エアプレーンとジェファーソン・スターシップのために多くのヒットを作り歌ってきたマーティ(本名マーティン・ジェラル・バックワルド)はソロでも活躍してきた。サンフランシスコのサウンド音楽ブームの元に位置し、ハイト−アッシュベリー地区に住んで1965年8月にマトリックス・ナイトクラブを始めた。バリンは「Comin’ Back To Me」「Today」「Plastic Fantastic Lover」「Volunteers」や「Miracles」など多くのヒットを一人でまたは共同で作曲し、グレース・スリックと共同でリード・ヴォーカルを務めてきた。マーティはカントナーやエアプレーンとは離れたり参加したりを繰り返しているが、彼らがエアプレーンやスターシップで共に作り上げた音楽は未だ高い人気を博し、世界中に影響を広げている。マーティ・バリン、安らかに。
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ミュージシャンとしてのキャリアを開始した当初、キングは1967年に「Incense and Pepermints」というヒットソングを飛ばしたストロベリー・アラーム・クロックというサイケデリック・ポップ・バンドに所属していた。その後、彼はストロベリー・アラーム・クロックの前座で登場した新進バンド、レーナード・スキナードと出会う。スキナードのベーシスト、レオン・ウィルクソンが1972年に短期間バンドを抜けた際キングはスキナードに誘われ、ウィルクソンは戻ってギターに転向、スキナードの象徴だったトリプル・ギター・アタック・サウンドが完成した。キングは最初の3枚のアルバム制作の間バンドに在籍。「Sweet Home Alabama」「Workin’ for MCA」や「Saturday Night Special」などのヒットを共作。しかし、1976年にスキナードのめちゃくちゃなツアースタイルに疲弊してバンドから離脱、替わりにスティーブ・ゲインズが参加したが、ゲインズはヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントと1977年10月20日の悲劇的な飛行機事故で亡くなっている。スキナードが1987年に再結成した際はキングも参加し、1996年に心臓のトラブルで離脱(その後2011年に移植手術を受けた)するまで行動を共にした。
18個のグラミー賞を受賞した歌うスーパースター、アレサ・フランクリンが、76歳で癌との戦いの後、他界した。アレサはメンフィス生まれで、主に’歌う牧師’として有名だった父親C.L.フランクリンに育てられた。彼の友人にはマーティン・ルーサー・キング、サム・クック、ジャッキー・ウィルソン、メイヴィス・ステイプルスや、マヘリア・ジャクソンがいる。子供の頃のアレサは教会で歌っていて、その頃すでにキリスト教レーベルからアルバムを1枚出している。1960年、父親がマネージメントをしていた時に彼女はコロムビアと契約、続けざまに宗教とは関係のないジャズ、ブルース、R&Bテイストのアルバムをリリースしたが、6年の間大した成果がなかった。1966年に彼女はアトランティックと契約、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーがアラバマ州のマッスル・ショールズで録音を担当。より煌びやかで男らしいサウンドに支えられ、彼女はトレードマークのゴスペルの影響があるR&Bサウンドを獲得し「I Never Loved a Man(The Way I Loved You)」「Baby I Love You」「Chain of Fools」「Think」、そしてもっとも著名な「Respect」など、数々のヒットを飛ばすようになる。これらの曲はオーティス・レディングが作ったものをアレサが編曲し、歌詞も少し変えて、タイトルを一文字ずつ歌ったコーラスを入れ、賛美歌のようにしたものだ。プロデューサーのウェクスラーがアトランティックを去ると彼女のヒットは減り、1980年には社長のクライヴ・デイヴィスの強い希望によりアリスタと契約。この時点で彼女のキャリアは映画『ブルース・ブラザーズ』に出演したことから上向きになっていた。アリスタからの2枚目のアルバム『Who’s Zoomin’ Who?』で彼女はチャートのトップ40に返り咲き、これはプラチナアルバムとなる。彼女はジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマの3人の大統領就任式で歌い、マーティン・ルーサー・キングの葬式でも歌っている。しかし、彼女の人生はおとぎ話のような幸せなものではなかった。彼女の両親は幼い頃に別居し、母は10歳の頃に亡くなった。彼女が最初に出産したのは12歳の時で、その後4人の息子を持つが、父親は全て違い、結婚はその内の1人としかしていない。彼女は家庭内暴力の被害者で、男たちにはキャリアの邪魔もされている。また、彼女は飛行機に対する恐怖症を発症し、ツアー活動にも影響が出た。アレサは体重を維持することができず、太ったり痩せたりを繰り返していた。喫煙と飲酒の問題もあった。彼女は公民権運動にも関わり、公表せずに彼女の信じる運動をする団体に寄付もしている。2011年から彼女の伝記映画も企画され、ジェニファー・ハドソンがアレサ役として抜擢されている。アレサへのトリビュート・ライブが11月14日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで企画されている。
ハウスマンはギャラクティックに参加する前はザ・リリックスや日本でカルト的な人気を博したホリーグローヴの『New Orleans Best Kept Secret』にも参加している。その後彼はパーカッショニストのマイケル・ワードとニューオリンズ・スタイルのファンクバンドリワードを結成、日本にもツアーで訪れていた。ギャラクティックのバンドメイトになるグループとは現在ニューオリンズで最も有名なファンク・ライブハウス、べニーズ・ブルー・バーでリワードとしてのライブで出会った。当時彼らのほとんどは大学生だったという。ハウスマンの遺作になる最新アルバムは『The Truth Iz Out』で、ニューオリンズのスター、イヴァン・ネヴィルやジューン・ヤマグチなどがゲスト参加している。
サックス奏者のチャールズ・ネヴィルが膵癌の為79歳でこの世を去った。チャールズは1956年から1958年の間海軍に参加、メンフィスに駐屯中、後に一緒に長期ツアーをすることになるBBキングとボビー・”ブルー”・ブランドに出会う。チャールズはその後、ラリー・ウィリアムズのニューオリンズのバンドに参加。ウィリアムズはハードな麻薬、窃盗や女衒などと関係が深かったが、それでもビートルズやストーンズにカバーされるようなヒット曲を作っていた。1963年にチャールズ・ネヴィルはマリファナのジョイントを2本所有していた罪で3年間収監される。刑務所で服役中、熱心に音楽の勉強をし、ジェームズ・ブッカーやジェームズ・ブラックなど、他の収監されていたミュージシャンたちと演奏した。刑務所を出た後、ジョニー・テイラーやクラランス・カーター等と演奏し、1977年にはネヴィル・ブラザーズ・バンドを結成。兄弟のアーロン(ヴォーカル)、アート(キーボード。彼はそれ以前にミーターズというバンドの共同創設者だった)、シリル(パーカッション)とのバンドだった。ネヴィル・ブラザーズはそこそこの人気があったが、チャートでの大ヒットは無い。しかし、他のミュージシャンからは生粋のニューオリンズ音楽一族として有名。チャールズの娘、シャーメイン・ネヴィルも評価の高い歌手で、彼女のデビュー曲「It’s About Time」は日本でも人気だった。アーロンの息子、イヴァンはキーボード奏者で、人気のファンクバンド、ダムスタファンクを率いてアートの曲を歌い、このバンドでは従兄弟のイアンがギターを弾いている。
プロデューサーでDJのマット・ダイクが55歳にて死去。ダイクはデリシャス・ヴァイナルを友人のマイク・ロスと共同で設立し、1980年代、トーン・ロックの「Wild Thing」やヤング・MCの「Bust a Move」などがヒットになり成功を掴む。この成功からマットはビースティ・ボーイズのアルバム『Paul’s Boutique』の制作に参加、アルバムの一部を自分のマンションで録音している。このサンプルを多用したアルバムはヒップホップの古典として知られるようになり、ダブル・プラチナアルバムとなる。その後、彼は音楽から身を引き、ドラッグに溺れるようになる。ダイクは1月に死亡していたそうだが、その死はつい最近まで公表されなかった。死因は明らかにされていない。
ルイジアナ州のシュリーヴポート生まれのチャンクラーはラテン・ジャズのウィリー・ボボと高校生の時に演奏を始めている。後に彼はハービー・ハンコックやマイルス・デイヴィス、ボビー・ハッチャーソン等偉大なプレイヤーと共演し、ウェザー・リポートの「Tale Spinnin’」にも参加している。セッション・プレイヤーとしての彼はポップのレコードにも参加していて、もっとも有名なのはマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」だ。また、DAZZバンドの1番のヒットだった「Let It Whip」を共作し、南カリフォルニア大学では教鞭も取っていた。
1968年にテンプテーションズに加入し「I Can’t Get Next to You」「Ball of Confusion」や「Psychedelic Shack」、「Papa Was a Rollin’ Stone」など多くのヒット曲のヴォーカリストだったデニース・エドワーズが74歳で他界した。死因は明らかにされていない。
エドワーズは、テンプテーションズに最初のヴォーカルだったデイヴィッド・ラフィンがクビになった後加入。彼はラフィンに比べるとザラついた歌唱スタイルで、また歌詞に社会的な問題意識を持ち込んだ。テンプテーションズはモータウンを1976年に脱退し、エドワーズはその後すぐバンドを離れたが、80年代に再度参加した。エドワーズはソロで「Don’t Look Any Further」という小ヒットを出しているが、この曲は後にヒップホップでよくサンプリングされ、特に有名なものにトゥーパックの「Hit ‘Em Up」がある。
南アフリカ出身のミュージシャンで、政治的にも力を持っていたヒュー・マセケラが78歳で他界、癌だった。彼は1968年のヒット『Grazing In the Grass』がポップのナンバー1ヒットになったことで知られたが、本人はジャズ・ホーン奏者だと自認していた。1959年に彼はダラー・ブランド等とザ・ジャズ・エピストルズを結成し、アフリカ初の黒人オンリーのジャズバンドと言われた。アパルトヘイトによる暴力の悪化で彼は南アフリカを離れ、ロンドンとニューヨークで学ぶ。1967年にはモンタレー・ポップ・フェスティバルで演奏。他にも『Rumble in the Jungle』ボクシングの試合をザイールで開催するために尽力した。ポップやロックのレコードで演奏することもあり、バーズのヒット曲「So You Want To Be a Rock’n’Roll Star」にも参加、ポール・サイモンとツアーにも出た。彼自身の曲「Bring Him Back Home」は1987年の反アパルトヘイト運動のテーマ曲にもなった。1964年から66年までの妻はアフリカの歌手ミリアム・マケバで、一緒に演奏したりもしている。3回の結婚では、キャブ・キャロウェイの娘、クリスと結婚していたこともあった。
ポスト・パンクのカルト的アーティストで、進化し続けたバンド、ザ・フォールの動力の源だったマーク・E・スミスが60歳で他界した。死因は発表されていないが、闘病中だった。スミスは彼のバンド名をアルベール・カミュの小説からとっている。キャプテン・ビーフハート、ザ・ドアーズ、フィリップ・K・ディックやキャンに影響を受けたと本人は言っていた。ザ・フォールは32枚のアルバムを発表していて、その全てが着実に売れていたが、爆発的な売り上げではなかった。彼のファンには英国ラジオの伝説ジョン・ピールがいて、ピールはよくスミスやザ・フォールを彼の番組で特集していた。イギリス国営放送BBCはスミスのドキュメンタリー「The Wonderful and Frightening World of Mark E. Smith」を作成している。
アラバマの眠たげな小さな町、マッスル・ショールズを伝説的な音楽の町と変えたプロデューサーで、スタジオ・オーナーのリック・ホールが85歳で死亡した。ホールは若くして結婚したが、すぐに妻を事故で亡くし、酒に溺れて車上生活者になる。しかし、ある時一念発起して悲劇を乗り越えた。金や名誉は持たなかったが、彼はヒットする曲というものを知っている、ヒットする曲を作ることができるという自信を持っていた。1959年に音楽制作会社を共同設立し、ビリー・シェリル、ダン・ペン、クラレンス・カーターや、彼自身など偉大な才能に溢れる作曲/作詞家を抱えることになる。地域のミュージシャンの中からスタジオで演奏するプレイヤーを選び、カントリーでもR&Bでも、ロックにも通じる男らしくファンキーで、素朴なテイストの曲をレコーディングしていく。このセッション・ミュージシャン達はその後スワンパーズとして知られるようになり、レーナード・スキナードの「Sweet Home Alabama」の歌詞で音楽史に名前が残った。オリジナルの中心グループはキーボードのバリー・ベケット、ドラムのロジャー・ホーキンス、ベースのデイビッド・フッドや、ギターのジミー・ジョンソンの他にも多くのメンバーがローテーションで参加した。リスナーのほとんどがバンドは黒人で編成されていると思っていたが、このメンバーは白人で、黒人のシンガーのバックバンドとして活動することが多かった。1960年代のディープ・サウスと呼ばれる南部ではこのような人種の交わりはほとんど例を見なかったが、ホールと彼のミュージシャン達はそのような前例に惑わされることなく、偉大な音楽を目指した。ホールは情熱家だったためか、彼とは仕事がしづらいという人間もいて、特に有名なのはアレサ・フランクリンの夫で、よくケンカをしていたという。オリジナルのスワンパーズもフェイムを離れて自分たちのスタジオを設立、しばらくは険悪な時期が続いたがやがて仲直りした。
ウィルソン・ピケットの「Mustang Sally」「Land of A Thousand Dances」「Funky Broadway」「Hey Jude」(デュアン・オールマンが「Hey Jude」の素晴らしいソロを弾いたものが多くのギタリストを触発した。エリック・クラプトンはオールマンに傾倒して探し出し、彼とプロジェクトバンドのデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成)。
オーティス・レディングの「You Left The Water Running」(所属作曲家のダン・ペンとリック・ホール、オスカー・フレイザーによって書かれ、ホールのためにオーティスがデモを歌ったもの。その後、フェイムではウィルソン・ピケットが録音した。ユニークなフレージングを含むレディングのバージョンは何年も経ってから発見され、1987年まできちんとリリースされなかったが、それ以前に海賊版がストーン・レコードから出されていてコレクターズアイテムとなっている)。
この後、彼は5年間ロンドンに拠点を移動し、そこからカリフォルニア州の大学でジャズを教えるかたわら、ステージ・ショウとなる「Evolution of the Blues(進化するブルース)」を手がけるが、両方ともが音楽の歴史に深く関わる活動だった。1986年、彼はマンハッタン・トランスファーのアルバム『Vocalise』への貢献により、グラミー賞を受賞。1988年にはカーメン・マクレエのためにセロニアス・モンクの曲へ歌詞をつけたアルバム『Carmen Sings Monk』の歌詞を提供。1997年にはウィントン・マルサリスとコラボレーションを行い、2015年にはマイルス・デイヴィスのアルバム『Miles Ahead』に歌詞をつけた。安らかに。
元ティーン・アイドルのデヴィッド・キャシディが67歳で、多臓器不全のため他界した。キャシディは70年代に驚異的な人気を誇り、テレビドラマ「パートリッジ・ファミリー」でバンドのリードボーカル、キース・パートリッジ役が特に人気だった。このテレビから派生したスマッシュヒット「I Think I Love You」は1970年にチャートでナンバーワンになり、500万枚以上を売り上げた。