Category: R.I.P.

Mar 08 2017

歌手Valerie Carterが他界

歌手のヴァレリー・カーターが64歳で他界した。カーターは、「ウエストコースト・ミュージック」と呼ばれるムーブメントの一部で、ジャクソン・ブラウン、リトル・フィート、ロンシュタット、ジェームズ・テイラーなどの、50を超える大手レーベルからリリースされた曲のバックコーラスとして活躍した。
彼女の歌手デビューはハウディ・ムーンというトリオだが、1974年に1枚のアルバムを上梓するに止まる。このアルバムはリトル・フィートのローウェル・ジョージのプロデュースで、彼はカーターの最初のソロアルバム『Just A Stone’s Throw Away』も手がけた。このソロアルバムには、人気のファイブ・ステアステップスのリメーク曲「Ooh Child」も含まれる。
カーターは、日本ではカルト的な人気を誇っており、日本限定のライブアルバムも発売されている。バックコーラスや、カバーで有名だが、ソングライターとしても成功しており、ジュディ・コリンズ、ジャクソン・ブラウン、ブラザーズ・ジョンソンやアース・ウィンド・アンド・ファイアにも楽曲を提供している。

Feb 21 2017

Clyde Stubblefieldが他界

ドラムの達人、クライド・スタブルフィールドが73歳で他界した。彼は「Cold Sweat」「There was A Time」「I Got the Feelin’」「Sex Machine」など、ジェームス・ブラウンのヒットを支えたことで知られている。ジェームス・ブラウンとは1965年から1971年の間共演。二人とも正式に音楽を勉強したことがなく、フィーリングで演奏したという。クライドの代表作は「Funky Drummer」で、1000回を超える演奏からサンプリングされた。この中には、パブリック・エネミー、Run DMC、NWAやビースティ・ボーイズのトラックも含まれている。
著作権というのは多くの場合歌詞提供者と楽曲提供者に行くものだが、ジェームス・ブラウンは、ほとんどの場合、バンドの曲を全て自分のものとして登録していたため、スタブルフィールドはジェームス・ブラウンのヒット曲、特に収益のあるような曲にはクレジットされていないため、収入が全く得られなかった。実際、彼の名前はミュージシャンやファンク音楽ファン以外には知られていない。
ブラウンと決裂した後は自分のバンドを作って活動し、ジェームス・ブラウンのバンドを金銭的な理由で離れたミュージシャンが集まって作ったJ.B.’sとも共演している。ここ最近は、2013年のヤマハ・レガシー・アワードなど多くのトリビュートを受けている。日本ではJ.B.’sは高く評価されており、1999年には、P-Vineから最初の再結成アルバムがアメリカに先行して日本で発売された。
音楽の巨人よ、安らかに。

Feb 13 2017

Al Jarreau、病院に搬送後、死去

アル・ジャロウは、過労と診断されすぐに入院、後に死亡。76歳だった。
ダイナミックで、国際的に愛されたヴォーカリストだったジャロウは7つのグラミー賞を獲得。ジャズ、ポップス、R&Bなどのカテゴリーを横断する活躍を見せた。
彼のユニークな歌い方はポップスのカテゴリーに分類されることが多いが、要素としてはジャズのテクニックを駆使していた。彼は影響を受けたミュージシャンとして、ビートルズ、スティービー・ワンダー、スライ・ストーンにジョン・ヘンドリックスを上げている。
彼のアルバムのうち14枚はビルボードのトップ200にランクイン、同時にジャズチャートにもランクインしているが、彼の1981年のアルバム『Breakin’ Away』はポップスで全米9位、R&Bとジャズのチャートでそれぞれ1位になっている。このアルバムには彼を象徴する曲「We’re In This Love Together」が収録されていた。

Feb 13 2017

Sonny Geraci、69歳で死去

クリーブランド生まれのポップ・シンガーで、1960年代はアウトサイダー、1970年代はクライマックスのリードシンガーとして全米ヒットを連発した、ソニー・ゲラチが69歳で亡くなった。ゲラチは2012年に脳動脈瘤を患い、以来病床にあった。
ソニー・ゲラチは、ミュージシャンとしてのキャリアをスターファイアというバンドで開始。ジェームズ・ギャングのドラマー、ジム・フォックスとはここで初めて会った。その後メンバーを少し入れ替え、バンドの名前を変更、アウトサイダーズとなり、キャピトルと契約。彼らのヒット曲「Time Won’t Let Me」は全米トップ5ヒットになり、100万枚を超えるセールスとなり、のちにバッキンガムズ、プリムソールズやイギーポップにカバーされた。アウトサイダーズには、この他、アイズレーブラザーズのリメークを含む3曲のベスト40ヒットがあるが、一般的には一発屋と思われている。三枚のアルバムをリリースした後、バンドは解体を始め、一時的に二つのアウトサイダーズが存在していたこともある。法廷での闘争の後、ゲラチは自分のバンドの名前をクライマックスに変更し、1972年に「Precious and Few」で全米3位のヒットを飛ばす。
1980年には音楽業界を離れたが、のちにオールディーズのサーキットに舞い戻り、ツアーを中心に活動していた。

Feb 06 2017

John Wetton、癌で他界

シンガー兼ベーシストのジョン・ウェットンが1月31日、67歳でこの世を去った。彼は、数々の有名プログレッシブ・ロックバンドへの参加でも有名だった。死因は結腸癌。
ウェットンはロクシー・ミュージック、UK、キング・クリムゾン、ユーライア・ヒープやエイジアなど、著名なバンドに所属していた。

Jan 27 2017

Allman Brothers BandのButch Tracks、死去

オールマンブラザーズの結成メンバーでドラマーのブッチ・トラックスが、自ら銃で頭を打ち抜き亡くなった。69歳だった。
ブッチ・トラックスは、1947年5月11日、フロリダ州ジャクソンビルに、クロード・ハドソン・トラックスとして生まれる。1969年にデュアンとグレッグのオールマン兄弟、ディッキー・ベッツ、ベリー・オークリー、ジェイモー・ジョハンソンとオールマンブラザーズバンドを結成。ブッチとジェイモーは、ジェームス・ブラウンやオーティス・レディングのラインナップに触発されてABBダブル・ドラム・ユニットを組んだ。ブッチは、1969年のバンド結成時から2014年の解散までずっとこのバンドに所属していた。
オールマンブラザーズバンドは、1971年のダブル・ライブ・アルバム『フィルモア・イースト・ライブ(原題At Fillmore East)』のブレイク。これが彼らの最大のヒットになったが、とにかくライブ・バンドとしての強みが発揮されている。事実、彼らの45年間のキャリアの中で、ヒットチャートのトップ10に食い込んだのは一曲のみ、1973年の「Ramblin’ Man」だった。このバンドは、1972年の精神的にもリーダーだったデュアン・オールマンと、ベーシストのベリー・オークリーの死を乗り越え、グレッグ・オールマンとディッキー・ベッツの酒や薬物問題を乗り越え、メンバーの変更を繰り返して存続した。1997年にはブッチの二十歳の甥、デレク・トラックスがバンドに参加している。
ブッチ・トラックス、安らかに。

Jan 26 2017

元Mott the HoopleのPeter Overend Wattsが死去

癌との闘病の末、イギリスのロックバンド、モット・ザ・フープルのベーシストとして有名なベーシスト、ピート・”オーヴァーエンド”・ワッツが、69歳で亡くなった。一年前に死去した、幼馴染でバンドの立ち上げメンバーだったデイル・”バッフィン”・グリフィンを追う形になった。この二人はモット・ザ・フープルの前身となるサイレンスを結成する前にいくつかのバンドに共に参加していた。プロデューサーのガイ・スティーブンス(ザ・クラッシュ、フリー)と契約した際にステージネームの変更を勧められ、ワッツはオーヴァーエンドをミドルネームとして加え、自分のステージネームとした。アイランド・レコードに所属している間は、ライブには非常に人気があったものの、チャートでは鳴かず飛ばずが続く。解散一歩前になったとき、彼らのファンだったデイヴィッド・ボウイが曲を提供、この曲がのちに彼らのテーマとなる「All the Young Dudes」だった。この後にリリースされた「Mott」も国際的な大ヒットになる。この後すぐにバンドはガタガタになるも、何年も人気を維持。2009年には大成功の再結成ライブツアーを敢行した。
安らかに眠ってほしい。

Jan 26 2017

CanのJaki Liebezeit、78歳で死去

ドイツ人ドラマーのヤキ・リーベツァイトが78歳でこの世を去った。彼は影響力の強い、実験的音楽のkrautrockバンド、カンのメンバーとして有名。独創的かつミニマリスティックで、ファンキーなドラミングスタイルで知られていた。
リーベツァイトは、カンの他にも、ブライアン・イーノやデペッシュ・モード、ジャ・ウォブルらのレコーディングにも参加。カンの曲は、カニエ・ウエスト、Qティップや、スパンク・ロックを含む数々のヒップホップ・アーティストがサンプリングしている。

Dec 29 2016

Alphonse Mouzon、癌で亡くなる

ジャズ・ドラマーのアルフォンス・ムザーンが68歳で亡くなった。死因は非常に珍しい型の癌だった。ムザーンは、ドラマーとして活動し始めてすぐにマッコイ・タイナーと共演し、ウェザー・リポートには最初のドラマーとして参加している。1972年ブルーノートと、ソロ・アーティストとして契約。1973年から75年は、ラリー・コリエルのフュージョン・グループ、イレヴンス・ハウスにも参加している。1991年には、マイルス・デイヴィスと映画『Dingo』のサウンド・トラックを作り、デイヴィスの元妻ベティ・デイヴィスと恋人関係にあった。
また、ムザーンは何作かの映画に出演、ミュージシャン役を演じた。1995年にレッド・ツェッペリンがロックの殿堂入りした授賞式では、ロバート・プラントがジョン・ボーナムにアルフォンス・ムザーンが大きな影響を及ぼしたと言及。
サイドマンとして、ジェフ・ベック、カルロス・サンタナ、トミー・ボーリン、ギル・エヴァンス、ジャコ・パストリアス、スティービー・ワンダーなどと共演。1992年には、自主レーベルTenacious Recordsを立ち上げ、死ぬ直前までレコーディングを続けていた。安らかに。

Dec 21 2016

Leonard Cohenの死によせて

先月7日に他界したレナード・コーエンは詩人、シンガーソングライター、小説家で色男、かつ禅僧でもあった。様々な意味でユニークなアーティストだった彼がファースト・アルバムを発表したのは32歳の時。ヒット作に恵まれたこともなく、特別に秀でた歌や演奏の才能があった訳でもない彼は、長い期間に渡ってアルバムを発表しない人物だった。彼の作品の主なテーマはロマンチックで好色な一方で、多様な宗教から受けた影響を反映したものだった。元マネージャーに数百万ドルを横領された後、70歳を過ぎてからキャリア上で最も頻繁にツアーに出るようになったのも珍しい話だ。コーエンは交際した女性達についてロマンチックな曲を書いた他(「ソー・ロング・マリアン」、「スザンヌ」など)、ジャニス・ジョプリン、バックシンガーのローラ・ブラニガンやジェニファー・ウォーンズと恋愛関係にあったことでも知られる。彼の評価は長年をかけて築かれたもので、現在では世界有数の優れたソングライターとして知られる。ティム・バックレーの「ハレルヤ」、ジョー・コッカーズの「バード・オン・ザ・ワイヤー」、ドン・ヘンリーの「エヴリィボディ・ノウズ」、ロベルタ・フラックの「ヘイ、ザッツ・ノー・ウェイ・トップ・セイ・グッバイ」、ジャニファー・ウォーンズの「フェイマス・ブルー・レインコート」、ジュディ・コリンズの「スザンヌ」など、彼の曲には他のアーティストがカバーして有名になった作品が多い。

Nov 17 2016

60年代のアイドルBobby Veeが死去

1960年代にアメリカのティーンアイドル歌手として一世を風靡したボビー・ヴィーがアルツハイマー症の合併症で他界した。享年73歳。本名ロバート・ヴェリーンは、10代の時に兄のバンドで歌い始め、若干17歳で初のトップ10入りを果たした。1960年代初期から半ば頃に活躍したハンサムでクリーンなイメージのリッキー・ネルソン、フランキー・アヴァロン、ボビー・ライデルらと並んで、エルヴィスよりも控えめでブルージーなポップスやバラードを歌ったヴィーは、テレビに頻繁に出演して次々と曲を大ヒットさせた。彼の作品がビルボードのトップ100にランクインした回数は38回、代表曲の「燃ゆる瞳(原題:The Night Has a Thousand Eyes)」、「テイク・グッド・ケア・オブ・マイ・ベイビー」や「ラバー・ボール」などのヒット曲で知られる。また、駆け出しの青年だったボブ・ディランがエルストン・ガン名義でピアノを弾いていた頃に、初めてプロとしてライブを行なうチャンスを与えた人物としても知られる。ヴィーの冥福を心から祈りたい。

Nov 11 2016

Chess Records創設者のPhil Chessが死去

シカゴを拠点とするレーベルChess Recordsの創設者フィル・チェスが他界した。享年95歳。フィルは兄レオナルドと共に1928年にポーランドからアメリカに移住。フィルが一時期働いていた家族経営の廃品置き場の向かいには、黒人たちが通うキリスト教バプティスト派の教会があり、フィルの音楽的嗜好に多大な影響を与えた。兵役を終えた兄が権利を買ったAristocrat Recordsが後にChess Recordsに改称された。レーベルが最初にリリースしたマディ・ウォータースの「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」は瞬く間にヒット曲に。その後も、ブルース、ジャズ、ロックの定番曲になったチャック・ベリー、ハウリン・ウルフ、ボ・ディドリー、エタ・ジェイムズやサニー・ウィリアムソンらの作品を世に送り出した。フィルの冥福を心から祈りたい。

Oct 21 2016

追悼:偉大な作曲家Rod Temperton

イギリス出身の作曲家ロッド・テンパートンが、癌のために他界した。享年66歳。ヒートウェイヴのメンバーとして有名になったテンパートンは、大ヒット曲「オールウェイズ・アンド・フォーエーヴァー」や「ブギー・ナイツ」を書いたことで知られる。その後は、クインシー・ジョーンズをはじめ、マイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール』や『スリラー』などに楽曲を提供した。彼の書いた曲はこれまでに、アレサ・フランクリン、アニタ・ベイカー、ジョージ・ベンソン、ハービー・ハンコック、チャカ・カーンにレコーディングされている。テンパートンの冥福を心から祈りたい。

Oct 04 2016

カントリーソングライターのJohn D. Loudermilkが死去

ソングライターのジョン・D・ラウダーミルクが他界した。享年82歳。ラウダーミルクは、共にルーブン・ブラザーズで活動するカントリーのスターであるアイラ・ルービンとチャールズ・ラウダーミルクをいとこに持つ。ポップとカントリーのソングライターとして人気を集めたラウダーミルクは、エディ・コクランのヒット曲「シッティン・イン・ザ・バルコニー」(1957年)、ニュービーツの「エヴリィシングズ・オールライト」(1964年)、ナッシュヴィル・ティンーズの「タバコ・ロード」(1964年)、マリアンヌ・フェイスフルの「ディス・リトル・バード」(1965年)、ポール・リヴィア&ザ・レイダーズの「インディアン・リザベーション」など群を抜いて素晴らしいカントリー・ヒット曲で知られる。ラウダーミルクの冥福を心から祈りたい。

Oct 04 2016

ザディコ音楽の伝道師Buckwheat Zydecoが死去

アコーディオン奏者/シンガーソングライターのバックウィート・ザディコ(本名スタンリー・デュラル・ジュニア)が肺癌のために他界した。享年68歳。ルイジアナ出身のミュージシャンだったザディコは、友人のクリフトン・シェニエと共にザディコ・ミュージックを一般大衆に広める中心的な役割を果たした。地元で有名になったザディコのパワフルで楽しいパフォーマンスの評判が口コミで広まり、1987年にメジャーレーベルのIslandと契約。その後はグラミー賞にノミネートされ、U2やエリック・クラプトンなど多数のアーティストと共演し、1996年のアトランタオリンピックでは世界のオーディエンスの前で演奏した他、世界各地のフェスティバルにも出演した。最後のアルバム『レイ・ユア・バーダン・ダウン』には、ロス・ロボスのスティーブ・ベルリン、トロンボーン・ショーティ、JJ・グレイ、オールマン・ブラザーズのウォーレン・ヘインズらがゲスト参加した。ザディコの冥福を心から祈りたい。

Oct 01 2016

Ernie Cruz Jr.が海で溺死

ハワイアン・ミュージックの偉大なアーティスト、アーニー・クルーズ Jr.が他界した。享年56歳。ライフガードが波打ち際から100mほどの海中でクルーズの遺体を発見し、死因は溺死とみられている。クルーズはカアウ・クレーター・ボーイズのメンバーとして有名になった。大ヒット曲「ユー・ドント・ライト」をはじめ、ハワイで大人気を博したバンドの作品は日本でもリリースされた。アーニーの父、兄弟のジョンとガイも有名なミュージシャンである。2001年にリリースされたアーニーのソロ・アルバム『ポートレイツ』は、ナ・ホク・ハノハノ賞で2部門を受賞した。アーニーの冥福を心から祈りたい。

Sep 30 2016

Y&T のLeonard Hazeが死去

Y&Tのドラマー、レオナルド・ヘイズが肺疾患のために他界した。享年61歳。1973年に結成されたY&Tの当初のバンド名は、ビートルズのアルバムからとったYesterday and Todayだった。ちなみに、日本の有名メタルバンド、アースシェイカー(Earthshaker)のバンド名はY&Tのアルバムのタイトルからとったものである。1987年にY&Tを脱退したヘイズは、ディープ・パープルのヴォーカル、イアン・ギランのツアーにドラマーとして参加した他、自身のバンドであるヘイズ・エクスペリエンスで活動した。Y&Tと良好な関係を保ったヘイズは特別な時に演奏に参加し、来年に公開されるY&Tのドキュメンタリー映画に多大な貢献をした。ヘイズの冥福を心から祈りたい。

Sep 14 2016

追悼:偉大なジャズ・エンジニアRudy Van Gelder

ジャズミュージックの名エンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーが他界した。享年91歳。ゲルダーは、名盤『至上の愛』を含むジョン・コルトレーンの作品をはじめ、ハービー・ハンコックの『Maiden Voyage(邦題:処女航海)』、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』、ホレス・シルヴァーの『ソング・フォー・マイ・ファーザー』、そしてマイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクのヒット・アルバムを手がけてきた。Blue Note Recordsの作品が最も良く知られるが、CTI、PrestigeやSavoyといったレーベルとも仕事をしていた。ゲルダーの冥福を心から祈りたい。

Aug 31 2016

ボーイズ・バンドの生みの親Lou Pearlmanが死去

数々のボーイズ・バンドを世に送り出したルー・パールマンが獄中で他界した。享年62歳。パールマンは、従兄弟のアート・ガーファンクルを通じて音楽業界への道を進んだ。ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックが巨万の富を生み出したことに魅了されたパールマンは、1993年にタレント発掘コンテストを主催し、後にバックストリート・ボーイズになるメンバーたちと出会った。彼らはミリオンセラーのヒットを飛ばすボーイズ・バンドへと急成長し、勢いに乗ったパールマンはNSYNCやLFOをプロデュースした。しかし、パールマンが利益の大半を着服するためにあらゆる手段を使っていることを知ったバンドは彼の元を去り、彼とビジネスをしていたアーティストのほとんどが訴訟を起こした。さらに、ボーイズ・バンドの複数のメンバーとパールマンが肉体的関係を持っているという噂が広まり、体格のいいブロンドのボーイズを好んだパールマンは彼らに自分のことを“ビッグパパ”と呼ばせたという。彼の嗜好を認識している者たちは存在したが、実際に罪に問われることはなかった。しかし、彼のビジネスに関する捜査から、パールマンが設立したTrans Continentalという旅行会社に出資した約2,000人の投資家に詐欺を働いていたことが明らかになる。逮捕されることを知ったパールマンはバリ島へと逃亡したが結局は捕まり、多岐に渡る罪を認めて懲役25年の刑に処せられた。パールマンが関わったボーイズ・バンドのメンバーの多くが彼の死について如才ないコメントを発表し、決して善人ではなかった彼だがショービジネスでの出発点を与えてくれた人物として敬意を表している。アーロン・カーターは“カルマは存在する”というリアルなコメントを出している。

Aug 23 2016

ジャズ・ミュージシャンのBobby Hutchinsonが死去

素晴らしいジャズ・ヴィヴラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンが肺気腫のために他界した。享年75歳。ハッチャーソンは、長い音楽人生の中でエリック・ドルフィー、ソニー・ロリンズ、ハービー・ハンコック、マッコイ・タイナーなど数多くの巨匠たちと共演した。カリフォルニア州パサデナで育った彼は、ジャズを演奏するためにニューヨークに移住したがタクシーの運転手として生計を立てていた。その後、サンフランシスコでの生活を経て、モンタナ州の海辺にある静かで小さな町に居を構えた(この町の名は、彼が1975年にBlue Noteからリリースしたアルバムのタイトルになっている)。ハッチャーソンの冥福を心から祈りたい。

Aug 04 2016

Tower of PowerのRufus Millerが死去

タワー・オブ・パワーの素晴らしいデビュー・アルバムのヴォーカル、テリー・“ルーファス”・ミラーが他界した。ルーファスは幼馴染みのスキップ・メスキートと共にタワー・オブ・パワーを創設したメンバーだったが、最近では教会で歌うのみの活動にとどまっていた。ルーファスの冥福を心から祈りたい。

Jul 29 2016

マルチなミュージックマンSandy Pearlmanが死去

プロデューサー、作曲家、音楽ライター、レコードレーベルの重役など多彩な顔を持っていたサンディ・パールマンが癌との闘病の末に他界した。享年72歳。パールマンは、ブルー・オイスター・カルト、ザ・ディクテイターズ、ザ・クラッシュ(『ギブ・ゼム・イナフ・ロープ』)、ドリーム・シンジケート、マハヴィシュヌ・オーケストラなど多様なアーティスト達をプロデュースしてきた。キャリア初期はアメリカの音楽雑誌Crawdaddy Magazineのライターとして活動していた。その後、ソフト・ホワイト・アンダーベリー(後のブルー・オイスター・カルト)のマネージャーとプロデューサーを兼任し、コロムビアの社長だったクライヴ・デイヴィスを彼らと契約させた。また、1979年から83年まではブラック・サバスのマネージャーも担当した他、初期のデジタル・ミュージック小売業者だったeMusicの副社長もつとめていた。パールマンの冥福を心から祈りたい。

Jul 25 2016

SuicideのAlan Vegaが死去

革新的なサウンドでテクノミュージックやロックに多大な影響をもたらしたといわれるロックデュオ、スーサイドのアラン・ベガ(本名アラン・バーモウィッツ)が7月16日に他界した。享年78歳。1970年に結成されたスーサイドは、当時は一部の間でのみ熱狂的に支持されたが、後に彼らの音楽の影響力が高く評価されるようになった。ブルックリン・カレッジで物理と美術を専攻したベガは画家として絵や光の造形作品を製作していた。しかし、ワイルドで挑戦的なザ・ストゥージズのパフォーマンスに感銘を受けて音楽の道に入ることを決意、マーティン・レブ(本名マーティン・レバーバイ)とスーサイドを結成した。活動初期のスーサイドは、マーサー・アート・センター、CBGB’s、マクシズ・カンサス・シティで演奏したが、喝采を浴びる夜もあれば、時にはブーイングを受ける夜もあった。また、1987年には渋谷ライブインに出演した。ある評論家は彼らの音楽を「まるでエルヴィス・プレスリーとクラフトワークがコラボしたホラー映画のサントラの様だ」と表現している。代表曲は、「ゴーストライター」(ザ・ホラーズやゴリーズにカバーされた他、MIAとLCDサウンドシステムがサンプリングに使用)、「ドリーム・ベイビー・ドリーム」(ブルース・スプリングスティーン、ネナ・チャリーがカバー)、「ジョニー」(ピーチズがカバー)、そして伝説の「フランキー・ティアドロップ」などがある。ベガの冥福を心から祈りたい。

Jul 04 2016

名ベーシストのRob Wassermanが死去

偉大なアップライト・ベーシストのロブ・ワッサーマンが6月29日に他界した。享年64歳。死因は健康上の問題らしいが詳細は公表されていない。ワッサーマンは、デビッド・グリスマン、オインゴ・ボインゴ、グレイトフル・デッドのボブ・ウェア、ルー・リード、エルヴィス・コステロ、リッキー・リー・ ジョーンズをはじめとする多数のアーティストと演奏してきた。代表作にはソロ名義で発表した『ソロ』、グラミー賞3部門にノミネートされて1部門を受賞した『デュエッツ』や『トリオス』などがある。ワッサーマンの冥福を心から祈りたい。

Jun 17 2016

名プロデューサーのChips Momanが死去

ソングライター/プロデューサー/サイドマンのチップス・モーマンが他界した。素晴らしい功績を残したことで知られるモーマンは、ロカビリー界の大御所ジョニー・バーネットやジーン・ヴィンセントらとギターで共演し、不朽の名曲「ドゥ・ライト・ウーマン、ドゥ・ライト・マン」および「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」をダン・ペンと共作した他、エルヴィス・プレスリーのヒット曲を何曲も手がけ、スタックス・レコード時代のカーラ・トーマスとウィリアム・ベルのヒット曲をプロデュースした。また、アレサ・フランクリンとはヒット・セッションを行い、数多くの一流ミュージシャンがヒット曲をレコーディングしたスタジオ「アメリカン・サウンド」の経営者でもあった。モーマンの冥福を心から祈りたい。

May 23 2016

元MegadethドラマーのNick Menza、死去

メガデスの元ドラマー、ニック・メンザが51歳で死亡した。現在のバンドOHMがロサンジェルスのベイクト・ポテトで3曲目を演奏している間に心臓発作で倒れた。メンザがメガデスにいたのは1989年から1998年だが、2014年のレコーディングには参加している。その際にバンドに戻らないか打診されたが、条件が合わないとして断っている。昨年参加したOHMには、もう一人元メガデスのクリス・ポーランドが在籍している。

May 23 2016

テキサスのシンガー、Guy Clarkが逝去

テキサスをベースに活動していたシンガー・ソングライターのガイ・クラークが74歳で死亡した。クラークは長い間、パフォーマーとしてはそれなりの成功でしかなく、ソングライターとしての知名度の方が高かった。2013年に『My Favorite Picture of You』がチャートインして、グラミー賞を取るまではトップ40を超えたこともなかった。
しかし、彼が他の歌手に書いた多くの曲がヒットしている。ジェリー・ジェフ・ウォーカーがレコーディングしたガイの曲、「LA Freeway」と「Desperados Waiting For a Train」のヒットが、ガイのキャリアのきっかけになった。また、ロドニー・クローウェルやリッキー・スカッグスに書いた曲はカントリーのナンバー1ヒットになっている。彼の曲は、ジョニー・キャッシュ、ジミー・バフェット、ジョン・デンバーやエミー・ルー・ハリスなどがレコーディングしている。

Apr 08 2016

カントリー歌手のMerle Haggardが死去

アメリカに最も愛されたカントリー歌手のマール・ハガードが79歳で死亡した。ハガードは辛い生い立ちで、20歳になる前に投獄されたりもしたが、音楽を通じて更生した。飾り気のない歌い方で、個人的で、勤勉で、酒びたりの人生や、愛と失恋について歌った。「Mama Tried」「Tonight the Bottle Let Me Down」「Sing Me Back Home」などの曲は、カントリーの垣根を越えて愛され、バーズ、グレイトフル・デッド、キース・リチャーズ、ジョン・バエズやエヴァリー・ブラザーズなど多くのアーティストにカバーされている。安らかに眠れ。

Mar 18 2016

ELPのKeith Emerson、死去

プログレッシブ・ロック・バンドのエマーソン・レイク・アンド・パーマー(以下ELP)のキーボード奏者だったキース・エマーソンが、71歳、サンタ・モニカの自宅で亡くなった。死因については明らかにされていない。ELPの最後のライブパフォーマンスは2010年の40周年記念ツアー。最後のアルバムは、1994年に発売された『In the Hot Seat』だった。
エマーソンが最初に名を挙げたのは、ザ・ナイスというバンドのメンバーとして。1970年にELPを立ち上げた。ELPのアルバム、最初の5枚は全てトップ20に名を連ねている。
エマーソンは、クラシック曲の演奏でも知られ、アーロン・コープランド、バルトーク・ベーラ、J.S.バッハ、レナード・バーンスタイン、モデスト・ムソルグスキーなどの曲を、ロック・スターらしいパフォーマンスで、スピンしながら、また楽器にナイフを突き立てたりしながら演奏した。エマーソンはモーグ・シンセサイザーの先駆者としても有名で、一部では、ロックバンドのツアーにシンセサイザーを最初に持ち込んだと言われている。コルグ社のPS-3000を最初の多重音声シンセサイザーと認めた人物。

Feb 19 2016

Vanity,腎不全の為他界

80年代のセックスシンボル、ヴァニティことデニース・マシューズが、57歳で、腎不全の為亡くなった。歌手、モデル、女優だった彼女はカナダでキャリアをスタートし、1980年に彼女のステージネームをつけたプリンスと出会う以前は日本でモデル業に勤しんでいた。もともとは、ヴァニティ6というセクシーでファンキーな女性トリオの一員だったが、1982年に「Nasty Girl」でヒットを飛ばし、プリンスのガールフレンドとしてローリングストーン誌の表紙にも現れている。プリンスの映画『Purple Rain』にも出演予定だったが、プリンスと破局したことで降板し、アポロニア・コテロがその役を務めた。その後ヴァニティはモータウンで2枚のアルバムを作り、1988年にはプレイボーイ誌の表紙にも登場、幾つかのマイナー映画にも出演しているが、その後キャリアは停滞。重度のコカイン中毒となったものの、1990年代には更生して、再生派クリスチャンとなった。彼女は一時オークランド・レイダーズのフットボール選手で、現在は誘拐・拷問・殺人などで服役中のアンソニー・スミスと結婚していた。
ヴァニティよ安らかに。