Whitney Houstonよ安らかに眠れ

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グラミー賞授賞式前夜の現地時間2月11日に、LAのビバリー・ヒルトンの客室でホイットニー・ヒューストンが死去した。享年48歳だった。

ホイットニーは1963年に音楽一家に生まれた。ゴスペル歌手だった母クリッシー・ヒューストンは、オーティス・レディング、エルヴィス・プレスリー、ヴァン・モリソンといった大御所アーティストのバック・ヴォーカルとして活動。長年に渡り歌手として成功を収めてきた従姉妹のディオンヌ・ワーウィックは、バカラック&デヴィッドの書いた数々のヒット曲で最も良く知られる。また、ホイットニーの名付け親はあのアレサ・フランクリンだった。幼くして教会で歌い始めたホイットニーは11歳でソリストに。その頃には母親と一緒にステージに立つようになっていた。14歳で初めてのレコーディングを行い、15歳でチャカ・カーンのヒット曲「アイ・アム・エヴリー・ウーマン」に参加(後に自身がカバーしてヒット)。オランダ人の血が16分の1流れるホイットニーは息をのむような美貌の持ち主でもあった。10代の時にはモデルとして、セブンティーン、コスモポリタン、グラマーといった多数の有名誌で活躍していた。

しかし、何よりも人々を魅了したのは彼女の素晴らしい歌声だ。1983年にスカウトを受けたArista Recordsと契約。社長/音楽プロデューサーのクライヴ・デイヴィス自らが彼女の歌う曲を選び、成功へと導く役割をつとめた。初めてのヒット曲は1984年のテディ・ペンダーグラスとのデュエット曲「ホールド・ミー」。1985年のデビュー・アルバム『ホイットニー・ヒューストン』は国ごとにヒット・シングルは異なったが最終的に人気に火がつき、14週連続1位を記録、約2500万枚以上を売上げた。1987年のセカンド・アルバム『ホイットニー・ヒューストン』も初登場1位のヒット作となり、25週連続でチャート上位にランクイン。収録曲のうち4曲がシングル1位に輝いたことで、立て続けに7曲が1位を獲得するという快挙を成し遂げた。その一方で、ポップ・シンガーとして巨大な成功を築いた彼女に対して、黒人としてのルーツを捨てたと中傷する冷たい声もあった。この影響からか、方向性の転換を図ったホイットニーは自分で曲を選ぶようになり、1990年にサード・アルバム『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト』をプロデュース/リリースした。制作チームは前作とほぼ同じ顔ぶれだったにも関わらず、R&Bに傾倒したサウンドが特徴となった。スティービー・ワンダーとLAレイドらがコラボ参加した同作は、初登場22位、最高順位3位を記録したが、前作と比較すると“たったの”プラチナ・ディスク4倍の売上げに留まった。1991年、湾岸戦争の最中に開催された〈Super Bowl〉でホイットニーは国歌斉唱をつとめた。彼女の歌ったバージョンは全米市民に大きな感動を与え、何度もテレビで放映された後に商業的にリリースされた。

元恋人のエディー・マーフィーと別れてからはレズ疑惑をかけられていたホイットニーだが、1992年にR&B界きっての不良ボビー・ブラウンと結婚。その1年後には1人娘のボビー・クリスティーナ(この時点でボビーには他の女性との間にすでに3児がいた)を出産。また、1992年にはケビン・コスナーと主演した映画『ボディガード』で、まるで現実の彼女自身のようなスーパースター歌手の役をつとめた。その演技力と映画の完成度には賛否両論が寄せられたが、ドリー・パートンが書いたテーマ曲「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」はホイットニーの代表曲に。サントラは全世界で4400万枚という驚異的なセールスを記録した。ホイットニーはその後も映画『ため息つかせて』や『天使の贈り物』に出演し、そこそこの成功を収めた。

1998年にR&B色の強いアルバム『マイ・ラブ・イズ・ユア・ラブ』で音楽活動を再開。最高順位13位だった同作は世界的ヒットとなったものの、初期の栄光にはまったく及ばない数字だった。また、この頃には清廉潔白だった彼女のイメージは色あせ、不安定な言動や外見の痩せ衰えが目立ってきたことから、夫ボビーが常用していたクラック・コカインに手を出したと噂される様になっていた。2000年、ボビーとホイットニーは空港で大麻所持が発覚し逮捕された。2002年に応じたテレビのインタビューでホイットニーは“クラックは安物の麻薬。稼ぎのいい私がクラックなんかを吸うわけがない。”と否定したが世間は信じなかった。指導者クライヴ・デイヴィスとも決別し、アルバムのセールスが急速に減少していくのを目の当たりにした。

2003年にボビーがホイットニーに対する暴行罪で逮捕されたが、ボビーはこの他にも問題を色々と起こしていた。2004年、ボビーは自身のリアリティーTV番組『ビーイング・ボビー・ブラウン』をスタート。ボビーとホイットニーの暴露話が中心的な内容で人気を集めたが、“不愉快だ”という反応を示す者も多かった。2006年に離婚を申請したホイットニーは、その後薬物依存症のリハビリ施設への入院が噂された。後年に出演したテレビのインタビューでは、麻薬を毎日やっていた90年代に“自分を見失った”と赤裸々に語っていた。

2009年にカムバックを試みたホイットニーは、クライヴ・デイヴィスからの助言を喜んで受け入れた。しかし声がついていかず、挙動不審はところは変わらないままだった。ファンらは活動再開を歓迎したが、彼女の全盛期が終わったことは誰の目にも明らかだった。そして、2011年5月にはリハビリ施設に再び再入院。ホイットニーの死因の詳細は明らかにされていない。沢山の素晴らしい名曲を残してくれた彼女の冥福を心から祈りたい。