ニューオリンズの貴族と呼ばれたベーシストのニック・ダニエルズ三世が癌との闘病ののち他界した。
彼はイワン・ネヴィルの幼馴染で、2003年にはダムスタファンクをイワンと共同創立。
他にも、ネヴィル・ブラザーズ、ドクター・ジョン、アラン・トゥーサン、ボズ・スキャッグス、エッタ・ジェームズら多くのアーティストと共演している。安らかに。

60年代の人気ガールズ・グループ、シャングリ-ラのリードシンガーだったメアリー・ワイスが75歳で他界した。グループの最初のヒットソング「Remember (Walking in the Sand)」(USチャート5位、UKチャートでは14位になり、日本では「リメンバー 渚のおもいで」として知られている)が出たときはまだ16歳だった。この曲はその後エアロスミスやゴーゴーズにカバーされている。グループではジョニー・サンダーズにカバーされた「Give Him a Great Big Kiss」やブロンディにカバーされた「Out In the Streets」を含む12のシングルをチャートインさせている。1965年には特大ヒット「Leader of the Pack」(邦題黒いブーツでぶっとばせ)があり、こちらはベット・ミドラーやカーペンターズがコピーしている。ザ・ダムドはこの曲のイントロをデビューシングルの「New Rose」で引用している。シャングリ―ラは国際的な人気を誇り、ビートルズ、ローリング・ストーンズやジェームズ・ブラウンら音楽界のビッグネームと共演、多くのテレビ番組でも引っ張りだこだった。ロックンロールのパイオニア、メアリー・ワイスよ、安らかに。

アイルランドのフォークシンガー兼パンクアイコンでもあるシェイン・マガウアンが長患いの末、65歳で他界した。
シェインが最初に世に出たのは、パンクバンド、ニップル・イレクターズ(国内ではザ・ニップスとして知られている)の創始者としてだ。その後、彼はポーグ・マホーンというアイルランド民謡の影響を強く受け継いだバンドを結成。バンドの名前はゲール語で「俺のケツにキスしろ」という意味で、その後バンド名はザ・ポーグスに変更された。ポーグスでは5枚のアルバムをリリースしたが、その語彙、ユーモア、ルーツへのつながりとマガウアンの飾りのない性質が注目された。ジョー・ストラマーやエルヴィス・コステロら著名な友人らの助けがあったものの、一部マガウアン本人の薬物中毒などもあってバンドはなかなか成功せず。1991年の日本ツアーで、ライブに出られなかったことでバンドからクビになってしまった。しばらくタイに住んだ後、シェイン・マガウアン・アンド・ザ・ポープスを結成、後にザ・ポーグスとも再結成。しかし、彼は結局酒と薬から完全に足を洗うことはかなわなかった。愛すべき悪党だったシェイン、安らかに。

ギタリストで作曲家のスコット・”トップ・テン”・ケンプナーが、69歳で、若年性認知症にて他界していたことがわかった。パンクバンドの草分けともいえるザ・ディクテイターズを大学時代の友人アンディ・シャーノフ、ロス・”ザ・ボス”・フリードマンと結成。1975年には彼らの友人でローディーをしていたハンサム・ディック・マニトバがボーカル兼初のドラマーを務めたが、ドラマーはその後数々変わっていく。デビューアルバム『The Dictators Go Girl Crazy!』(エピックレコード)はワイルドなハード・ロックサウンドにユーモアがちりばめられ、NYのパンク・ムーブメントのパイオニアとして隆盛に一役買うことになると同時に、評論家たちは愛憎両方で迎えられた。アルバム発売により、バンドはブルー・オイスターズやキッスなど、ビッグ・ネーム・バンドと共にアメリカツアーにも繰り出している。
また、ディクテイターズは1976年にデビューしたザ・ラモーンズとは友人かつ多大な影響を与えた。
その後バンドとしてはアサイラムから2枚アルバムを発売、デビューアルバムよりもプロデュースがはいった洗練されたサウンドだったが、カルト人気から飛び出すきっかけとなっている。ディクテイターズの後、ケンプナーはアメリカーナ・スタイルのバンド、デル・ローズを結成し、高い評価とそこそこの成功を収めている。
ケンプナーは、ディクテイターズの再結成イベントにも多く参加し、発病する前にもイベントを企画していた。収入を助けるためにレコード店で仕事をしていたことも多く、ロサンゼルスの著名なライノ・レコードやアメーバでも働いていた。
また、野球のNYヤンキーズと、ザ・フーの熱狂的なファンとしても知られている。
ギターの奏法としてはタウンゼントのウィンドミル・スタイルを取り入れており、つねにダイナミックなパフォーマーだった。大いなる愛をスコット・”トップ・テン”・ケンプナーに捧ぐ。RIP

ニューオリンズの伝説のドラマー、ラッセル・バティスト・ジュニアが57歳にして心臓発作で他界した。彼はザ・ミーターズのドラマーとして最も知られているが(オリジナルのドラマー、ジガブー・モデリストの代わりに参入)、後にバンドはザ・ファンキー・ミーターズに改名。彼は音楽一家の出身で、父親も音楽家、いとこにはグラミー賞を受賞したピアニストのジョン・バティストがいる。ラッセルはドラマーとして高い評価を受けつつも、ニューオリンズでメインに活動し、ダムスタファンク、ボネラマ、パパ・グロウズ・ファンクやワイルド・マグノリアズらとコラボを行い、スーパー・グループと呼び名も高いヴィダ・ブルーもフィッシュのキーボード奏者、ペイジ・マッコーネルやオールマンブラザーズのベーシスト、オテイル・バーブリッジと結成していた。

アメリカのシンガー・ソングライター、ジミー・バフェットが皮膚がんにより、9月1日、76歳で他界した。残念なことに日本ではそこまでの著名度は無かったが、アメリカではスタジアムコンサートが満員になるスーパースターだ。ランキングとしては70年代半ばと、80年代前半でトップ40に何曲かランクインした。バフェットはミシシッピ生まれのアラバマ育ちで、メキシコ湾沿岸地域ということからガルフ・コースト育ち、と呼ばれる。彼の祖父と父は二人とも船乗りで、その影響かバフェット本人もボート乗りを好んだ。その姿や船、ビーチ、海賊や飲酒など海にちなんだテーマの曲が彼の象徴ともなっている。彼の曲は、最初のヒット曲「Come Monday」に代表される優しいラブソングから、コミカルな「Cheeseburger in Paradise」、また彼の最大のヒット曲「Margaritaville」のようなコミカルなラブソングに分類されるものが多い。彼の音楽スタイルもフォークからポップス、ブルース、カントリーやカリビアンなど多岐にわたっている。発売したアルバムのうち9枚はプラチナアルバムになっている。
音楽の他にも、彼は素晴らしいビジネスマンとしての顔も持っていた。自らのレコードレーベルを立ち上げたり、ビール製造、レストラン、カジノ、ホテル、老人ホームやマイナーリーグの野球チームなど、多くの投資を行った。また彼は俳優として多くの映画にも出演、ベストセラー作家の顔も持っている。彼の総資産は10億円を超えると予測されている。

著名な活動家、かつプロデューサーのクリス・ストラックウィッツが5月5日に91歳で他界した。
ドイツに生まれたストラックウィッツは、第二次世界大戦前にアメリカに逃げて来た。アメリカのルーツ・ミュージックに興味を持った彼は、1960年、サンフランシスコのベイエリアにある町、エル・セリートにアーフーリーレコードというレーベルを立ち上げる。ライトニン・ホプキンズ、アール・フッカー、マンス・リプスコムやミシシッピ・フレッド・マクドウェルら、数々のブルースやフォークのアーティストを録音。アーフーリーは他にも、ビッグ・ジョー・ターナーやローウェル・フルサムなどのR&Bの偉人のリ・イシュー盤なども手掛けている。他にもルーツミュージック、ザディコの偉人と呼ばれるクリフトン・シェニエのヒットも手掛けている。
音楽マニアからは賞賛されるこれらの音楽は、着実に売れてはいたが、少額、また売れ行きもしっかりとあったものの、動きはゆるやかだった。レーベルのを保つためには2つの手法が取られていた。ストラックウィッツは地域のバンドだったカントリー・ジョーやザ・フィッシュの録音や発行を手掛け、それが確実な利益となったこと。また、彼はローリング・ストーンズのブルーストラック「You Gotta Move」にフレッド・マクドウェルの部分権利を認めさせる ことができた。彼の膨大なコレクションを散逸させないため、2016年にはアメリカ政府の博物館兼教育組織であるスミソニアン協会がコレクションを取得したと発表した。
レコード・レーベル以外にも、ストラックウィッツはダウン・ホーム・ミュージックというレコードショップを経営。こちらはまだ営業を続けている。偉大なる音楽人、クリス・ストラックウィッツ、安らかに。

イギリスのポスト・パンクバンド、ザ・ポップ・グループのフロントマンだったマーク・スチュワートが62歳で他界した。死因は開示されていない。
スチュワートはブリストル育ちで、地元の友人らとザ・ポップ・グループを立ち上げた。バンドはパンクのエネルギッシュさと、ジャズにも似た複雑さを併せ持ち、ファンクのベースラインやインダストリアル音楽の要素も取り入れつつ、歌詞は噛みつくような激しさでよく政治的なメッセージを発していた、非常にユニークなグループだった。デビューアルバムの『Y』は1977年にリリースされ、1980年にはセカンドアルバム『How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』がラフ・トレードから出版された。
日本でもカルト的な人気があり『Idealists in Distress From Bristol』といういわゆる海賊版まで発行されている。
バンド解散後、スチュワートはダブ系統のバンド、ニュー・エイジ・ステッパーズに参加し、エイドリアン・シャーウッドのON-Uサウンドからアルバムもリリースしている。ソロ活動ではマーク・スチュワート&マフィアとして活動し、坂本龍一、マッシブ・アタック、ダグ・ウィムビッシュ、キース・レヴィン、トレント・レズナーや、プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーら、幅広いアーティスト達とコラボレーションしていた。本当のオリジナルと言えるアーティストだった。RIP。

3月28日、坂本龍一が71歳で他界した件については、ニューヨークタイムズ、NPRやザ・アトランティックに代表される多くのアメリカのメディアで取り上げられた。ハードコアな彼のファンは、坂本がテクノ・ポップ、クラシック、ジャズやワールドミュージックなど幅広い分野を手掛けていたことをよく知っているが、アメリカの多くにとっては、坂本は1982年の「Merry Christmas Mr. Lawrence」1990年の「The Sheltering Sky」や2015年の「The Revenant」などのサントラの作曲者というイメージが強い。不思議なことに、最も彼を有名にした「Merry Christmas Mr. Lawrence」についてはリアルタイムで彼の曲という認識は薄く、後になって高い評価を受けている。また、彼の作品としてよく知られているのは海外のアーティストらとのコラボレーションだ。デイヴィッド・シルヴィアン、ジャック・アンド・パウラ・モレレンバウム、イギー・ポップ、トーマス・ドルビー、エイドリアン・ブルー、ロディ・フレイム、ユッスー・ンドゥール、アルヴァ・ノト、クリストファー・ウィリッツら多くのミュージシャンと活動している。また、坂本は環境保護や原発問題、沖縄の基地問題など政治的な議論を展開する数少ない日本人ミュージシャンとしても認識されている。非常に興味深く、冒険心と大きなハートをもったミュージシャンだった。安らかに。

ジャズ作曲家でサキソフォン奏者のウェイン・ショーターが89歳で他界した。ウェインが最初に世に出たのはアート・ブレーキ―との共演がきっかけだ。サックスを吹くだけではなく、楽曲の提供もした。彼のソロ・デビューは1960年で、アルバムのタイトルは『Introducing Wayne Shorter』。1964年にはマイルス・デイヴィスの2つ目の「Great Quartet(偉大なる四重奏)」と呼ばれるバンドに参加、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスと共演しつつ、ソロとしての作品発表もブルーノートから続けている。1966年の彼のアルバム『Speak No Evil』は多くから彼の最高傑作と評されている。このアルバムのジャケットには最初の妻、テルコ・(アイリーン)・ナカガミがフィーチャーされている。マイルス・デイヴィスの最も有名なアルバム「In a Silent Way」「Bitches Brew」にもウェインは参加している。1970年に、ウェザー・リポートをジョー・ザヴィヌルと結成、バンドは大きな成功を収める。1972年にはドラマーのバスター・ウィルアムズに仏教を紹介されて以来は仏教家としての活動にも熱心に行いつつ、ハービー・ハンコックのコラボレーターとしても頻繁に活動した。ティナ・ターナーはウェイン・ショーターに暴力的な夫、アイクから逃げるための安全な場所を提供してもらい、命を救われたという。ジャズマンとされながら、ジョニ・ミッチェルやドン・ヘンリーのトラック(スマッシュ・ヒットの「End of Innocence」)にも参加したり、ローリング・ストーンズやスティーリー・ダン(アルバム『Aja』のファーストトラック)など、ジャズ以外のジャンルでも活躍。ウェイン・ショーターは生涯で12のグラミー賞を受賞し、彼の作曲した「Footprints」「Infant Eyes」「Yes or No」はジャズのスタンダードとして愛されている。安らかに。