著名な活動家、かつプロデューサーのクリス・ストラックウィッツが5月5日に91歳で他界した。
ドイツに生まれたストラックウィッツは、第二次世界大戦前にアメリカに逃げて来た。アメリカのルーツ・ミュージックに興味を持った彼は、1960年、サンフランシスコのベイエリアにある町、エル・セリートにアーフーリーレコードというレーベルを立ち上げる。ライトニン・ホプキンズ、アール・フッカー、マンス・リプスコムやミシシッピ・フレッド・マクドウェルら、数々のブルースやフォークのアーティストを録音。アーフーリーは他にも、ビッグ・ジョー・ターナーやローウェル・フルサムなどのR&Bの偉人のリ・イシュー盤なども手掛けている。他にもルーツミュージック、ザディコの偉人と呼ばれるクリフトン・シェニエのヒットも手掛けている。
音楽マニアからは賞賛されるこれらの音楽は、着実に売れてはいたが、少額、また売れ行きもしっかりとあったものの、動きはゆるやかだった。レーベルのを保つためには2つの手法が取られていた。ストラックウィッツは地域のバンドだったカントリー・ジョーやザ・フィッシュの録音や発行を手掛け、それが確実な利益となったこと。また、彼はローリング・ストーンズのブルーストラック「You Gotta Move」にフレッド・マクドウェルの部分権利を認めさせる ことができた。彼の膨大なコレクションを散逸させないため、2016年にはアメリカ政府の博物館兼教育組織であるスミソニアン協会がコレクションを取得したと発表した。
レコード・レーベル以外にも、ストラックウィッツはダウン・ホーム・ミュージックというレコードショップを経営。こちらはまだ営業を続けている。偉大なる音楽人、クリス・ストラックウィッツ、安らかに。
イギリスのポスト・パンクバンド、ザ・ポップ・グループのフロントマンだったマーク・スチュワートが62歳で他界した。死因は開示されていない。
スチュワートはブリストル育ちで、地元の友人らとザ・ポップ・グループを立ち上げた。バンドはパンクのエネルギッシュさと、ジャズにも似た複雑さを併せ持ち、ファンクのベースラインやインダストリアル音楽の要素も取り入れつつ、歌詞は噛みつくような激しさでよく政治的なメッセージを発していた、非常にユニークなグループだった。デビューアルバムの『Y』は1977年にリリースされ、1980年にはセカンドアルバム『How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』がラフ・トレードから出版された。
日本でもカルト的な人気があり『Idealists in Distress From Bristol』といういわゆる海賊版まで発行されている。
バンド解散後、スチュワートはダブ系統のバンド、ニュー・エイジ・ステッパーズに参加し、エイドリアン・シャーウッドのON-Uサウンドからアルバムもリリースしている。ソロ活動ではマーク・スチュワート&マフィアとして活動し、坂本龍一、マッシブ・アタック、ダグ・ウィムビッシュ、キース・レヴィン、トレント・レズナーや、プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーら、幅広いアーティスト達とコラボレーションしていた。本当のオリジナルと言えるアーティストだった。RIP。
3月28日、坂本龍一が71歳で他界した件については、ニューヨークタイムズ、NPRやザ・アトランティックに代表される多くのアメリカのメディアで取り上げられた。ハードコアな彼のファンは、坂本がテクノ・ポップ、クラシック、ジャズやワールドミュージックなど幅広い分野を手掛けていたことをよく知っているが、アメリカの多くにとっては、坂本は1982年の「Merry Christmas Mr. Lawrence」1990年の「The Sheltering Sky」や2015年の「The Revenant」などのサントラの作曲者というイメージが強い。不思議なことに、最も彼を有名にした「Merry Christmas Mr. Lawrence」についてはリアルタイムで彼の曲という認識は薄く、後になって高い評価を受けている。また、彼の作品としてよく知られているのは海外のアーティストらとのコラボレーションだ。デイヴィッド・シルヴィアン、ジャック・アンド・パウラ・モレレンバウム、イギー・ポップ、トーマス・ドルビー、エイドリアン・ブルー、ロディ・フレイム、ユッスー・ンドゥール、アルヴァ・ノト、クリストファー・ウィリッツら多くのミュージシャンと活動している。また、坂本は環境保護や原発問題、沖縄の基地問題など政治的な議論を展開する数少ない日本人ミュージシャンとしても認識されている。非常に興味深く、冒険心と大きなハートをもったミュージシャンだった。安らかに。
ジャズ作曲家でサキソフォン奏者のウェイン・ショーターが89歳で他界した。ウェインが最初に世に出たのはアート・ブレーキ―との共演がきっかけだ。サックスを吹くだけではなく、楽曲の提供もした。彼のソロ・デビューは1960年で、アルバムのタイトルは『Introducing Wayne Shorter』。1964年にはマイルス・デイヴィスの2つ目の「Great Quartet(偉大なる四重奏)」と呼ばれるバンドに参加、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスと共演しつつ、ソロとしての作品発表もブルーノートから続けている。1966年の彼のアルバム『Speak No Evil』は多くから彼の最高傑作と評されている。このアルバムのジャケットには最初の妻、テルコ・(アイリーン)・ナカガミがフィーチャーされている。マイルス・デイヴィスの最も有名なアルバム「In a Silent Way」「Bitches Brew」にもウェインは参加している。1970年に、ウェザー・リポートをジョー・ザヴィヌルと結成、バンドは大きな成功を収める。1972年にはドラマーのバスター・ウィルアムズに仏教を紹介されて以来は仏教家としての活動にも熱心に行いつつ、ハービー・ハンコックのコラボレーターとしても頻繁に活動した。ティナ・ターナーはウェイン・ショーターに暴力的な夫、アイクから逃げるための安全な場所を提供してもらい、命を救われたという。ジャズマンとされながら、ジョニ・ミッチェルやドン・ヘンリーのトラック(スマッシュ・ヒットの「End of Innocence」)にも参加したり、ローリング・ストーンズやスティーリー・ダン(アルバム『Aja』のファーストトラック)など、ジャズ以外のジャンルでも活躍。ウェイン・ショーターは生涯で12のグラミー賞を受賞し、彼の作曲した「Footprints」「Infant Eyes」「Yes or No」はジャズのスタンダードとして愛されている。安らかに。
ソングライター/ギタリストのトム・ヴァーレインが73歳で他界した。短期間の闘病の後。
本名トーマス・ミラーだった彼は、ニューヨーク市に移住後、フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの名前の英語読みを取ってステージネームとした。幼少期からの友人だったリチャード・マイヤーズ、のちのリチャード・ヘルとニューヨークに引っ越し、短期間だがネオン・ボーイズというバンドを組んだりしていた。ヘルと別れた後は卓越した技術を持ったギタリスト、リチャード・ロイドと、テレビジョンというバンドを結成。二人のギタリストの融合によって非常にユニークなサウンドを提供した。
ヴァーレインはマイルス・デイヴィス、ベンチャーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドなど幅広いアーティストから影響を受けていた。彼が特に好んでいたのが、アメリカに輸出されたものを手に入れたという日本限定盤のマイルス・デイヴィスのアルバム『Agatha』や『Dark Magus』だった。
テレビジョンは、ライブ場所を求めて1974年3月当時、閑古鳥の鳴くバーだったCBGBのオーナー、ヒリー・クリスタルに接触、ライブの開催許可を得る。これが70年代のニューヨークパンク・シーンの始まりとなり、ラモーンズ、ブロンディ、ディクテイターズ、そしてヴァーレインの恋人だったパンク詩人のパティ・スミスも参加するようになった。1975年10月にはテレビションはオーク・レコードから『Little Johnny Jewel』というシングルをリリース、その後多くのレーベルから誘いを受け、エレクトラと契約してデビューアルバム『Marquee Moon』(ほぼ全曲をヴァ―レーンが作曲)を1977年2月8日にリリースした。当時批評家からは高く評価され、現在はマスターピースと高く評価されているこのアルバムだが、アメリカチャートにはランクインすらしなかった。しかしUKチャートでは28位となり、のちにブロンディを前座に据えたイギリスツアーが実現した。1978年の2番目のアルバム『Adventure』も好評だった割に売れず、その後すぐにバンドは解散、ヴァーレインはソロとして活動を始める。
しかし、1992年に再結成し、3枚目のアルバムをリリース、これもわずかしか売れなかった。しかし、非常に人気の高いライブバンドと評され、世界各国でライブショーやフェスに参加、2002年のフジロックにも登場している。10年ほど前、プレスに対して新しいアルバムがもうすぐ完成すると発表していたが、依然登場せずであった。
テナー・ジャズサックスの偉人だったファラオ・サンダースが81歳で他界した。サンダーズが最初に音楽界で注目されたのは、ジョン・コルトレーンとの共演だった。彼らはカリフォルニア州オークランドで出会い、1965年に『Ascension』の録音でコラボ。本人名義でのアルバムでは、一部彼の日本や中東への旅から影響された強い精神世界からの影響を露わにしていた。
彼はセシル・テイラー、クララ・ブレイ、ロニー・リストン・スミス、セシル・マクビー、スタンレー・クラーク、ソニー・シャーロックやビル・ラズウェルを含む多くの著名なアーティストとも共演していた。2003年には、スリープ・ウォーカーという日本のバンドとも共演し、2020年にはイギリスのミュージシャン、フローティング・ポイントとの共作でマーキュリー賞を受賞していた。
ジャズの偉人、ラムゼイ・ルイスが87歳で他界した。ルイスはシカゴの貧困の中で育ったが、教会の聖歌隊の音楽家だった父から早くにピアノを学び始める。彼は最初のアルバムを1956年にチェス・レコードから出版、そこからバードランド、ヴィレッジ・ヴァンガードやニューポート・ジャズ・フェスティバルでの演奏につながっている。しかし、彼の最も知られている作品は1965年のインストゥルメント曲「The In Crowd」だろう。1968年、1969年には日本でレコーディングしたライブアルバムをリリースしている。1074年、彼の「Sun Goddess」と1976年の「Tequila Mockingbird」はアース・ウィンド・アンド・ファイアのモーリス・ホワイトがプロデュースし、バンドのメンバーも多く参加した。彼には5枚のゴールド・アルバムがあり、グラミー賞も3度受賞している。彼はDJや音楽の教育者としても活動していた。
安らかに。
B3(ハモンド)オルガン奏者、ジョーイ・デフランチェスコが51歳で他界。原因は発表されていない。音楽家としては三代目で、非常に画期的なプレイヤーだった彼の影響で、B3オルガンへの世界的な興味を再燃させた。ジョーイは10歳でプロ奏者になり、17歳で最初のメジャーアルバムを録音。大体においてジャズ奏者と思われていて、高校生の時にジャズの偉人と言われるマイルス・デイヴィスと、またクリスチャン・マクブライドとの共演ではグラミーを受賞、ファラオ・サンダーズ、デイヴィッド・サンボーンらと共演しているが、ロックシンガーのヴァン・モリソンやベット・ミドラーとも共演している。彼のあこがれだったジミー・スミスと同じくフィラデルフィアの出身で、高校時代のクラスメートにはドラマーのクエストラヴ・トンプソンやギタリストのカート・ローゼンウィンケルもいた。安らかに。
作曲家でプロデューサーのラモン・ドジャーが81歳で他界した。彼はデトロイトをベースに活躍したプロダクションチーム、ホランド・ドジャー・ホランドの一員で、モータウンレーベルのヒット曲の多くを手掛けた。彼が手掛けた中にはシュープリームスの10のチャート1位曲が含まれる。後に、インヴィクタスやホット・ワックスなどのレーベルも創立し、それらでフリーダ・ペイン、ハニー・コーン、チェアマン・オブ・ザ・ボードなどを手掛ける。他にも、フィル・コリンズ、ピーボ・ブライソン&レジーナ・ベル、アリソン・モイエ、ミック・ハックネルに曲を提供または共作していた。
音楽業界はまた、偉大な人を亡くした。レーベルの代表だったモー・オースティンは95歳で他界となった。オースティンは1954年に業界での活動を開始、友人のノーマン・グランツのクレフ・レコードに参加し、のちにMGMに買収されることになるヴァ―ヴ・レコードを創設。1960年にはフランク・シナトラに雇われて、スタート・アップレーベルだったリプライズをけん引し、これが1963年にはワーナー・ブラザーズに吸収され、彼はその後ワーナーのCEOとなった。
彼の功績の中には、キンクス、ジミ・ヘンドリックス、R.E.M、ニール・ヤング、ポール・サイモン、ザ・セックス・ピストルズ、キャプテン・ビーフハート、ダイナソージュニア、レッド・ホット・チリ・ペッパー、フリートウッド・マックら多くのミュージシャンとの契約がある。
彼はミュージシャンを第一とし、個人的に広報官を雇うような多くのレーベル指導者と違い注目されることを嫌い、結果多くのアーティストらに愛された。また、彼はバスケットボールの大ファンで、LAレイカーズによく友人のジャック・ニコルソンと行っている姿が見られた。卒業校であるUCLAには2千万ドルの寄付を行い、そのうち半分は音楽学校に、もう半分はバスケットボール施設に、と言づけたという。
安らかに。