トロンボーン・ショーティことトロイ・アンドリュースが、来夏のオーリンズ・アベニューのブードゥー・スロウンダウン祭への参加を発表した。トロンボーン・ショーティがヘッドラインかつダムスタファンク、ジョージ・ポーター・ジュニアとミーターズのコラボ、タンク・アンド・バンガス(昨年のグラミーにベスト新人アーティストとしてノミネートされた)、ヒップ・ホップ、バウンスのスター、ビッグ・フリージア(ドレーク、ギャラクティックやケシャらのアルバムに参加している)、そしてニューオリンズの伝説、ミーターズやネヴィル・ブラザーズでの活躍で知られるシリル・ネヴィル(彼はダムスタファンクのリーダー、イヴァン・ネヴィルの叔父としても知られる)らも参加するという。

モーフィンのドラマー、ビリー・コンウェイが、65歳で癌により他界した。ボストンをベースに1985年から91年の間活動したバンド、トリート・ハー・ライトで、ビリーは最初に世に出ている。このバンドのスタイルはスワンピーな、ストリップド・ダウン・ロックの中でもブルースよりだった。1989年にバンド仲間のマーク・サンドマンがサイド・プロジェクトとして、よりダークな、夢見るようなサウンドのモーフィンを立ち上げ、サンドマンがボーカルとツー・ストリング・ベースを担当、ダナ・コリーがバリトンサックスを担当。ビリーがモーフィンに参加したのは少し後で、モーフィンの傑作と呼ばれた1993年ライコディスクから出版された「Cure For Pain」に携わっている。その後、メジャーレーベルから出版したアルバムにも参加。モーフィンのアルバムは堅実に、着実に売り上げ、日本各所で行ったものも含むツアーによってファン層も広まり(日本ツアーの映像はドキュメンタリー『Journey of Dreams』にも使われている)、また映画『Spanking the Monkey』ではモーフィンの曲が多く使われた。悲劇的なことに、マーク・サンドマンは1999年に舞台上で心臓発作に襲われ死去したが、バンド自体は高い人気を誇った。モーフィンの消滅後、ビリーは新たなプロジェクトバンド、トゥワインマンを恋人かつシンガーのローリー・サージェントと結成、また2020年には唯一のソロアルバム『Outside Inside』をリリースした。安らかに。

ソーライヴとグレイボーイ・オールスターズのドラマーとしてよく知られているアラン・エヴァンスが、自分の名前を冠したアラン・エヴァンス・トリオとして、アルバム『Elephant Head』をリリースした。このアルバムは、レトロ・ファンクとカーティス・メイフィールド的、映像的な音楽となっている。

女優兼映画監督のオリヴィア・ワイルドは近日公開となる1950年代のアメリカを舞台としたサイコ・スリラー『Don’t Worry Darling』を監督している。ワイルドの名前が最初に出たのは、テレビで大人気医療ドラマの『House M.D. (邦題Dr. House)』、その後の映画、そしてその後のブロードウェイから。大人気の彼女は、レヴロンとH&Mのブランド・アンバサダーも務めた。監督を始めたのは、エドワード・シャープとレッド・ホット・チリ・ペッパーズのドキュメンタリーとミュージックビデオ制作から。彼女の期待作『Don’t Worry Darling』にはイギリスの女優で、マーヴェルの『Black Widow』に出演したフローレンス・ピューが主演、ピューの夫でイギリスのポップスター兼モデルのハリー・スタイルズ。ワイルドは、観客に対してこの作品を大画面で見ることで「皆がどれくらい女性の欲望を目の当たりにすることが少ないか、特にこのタイプの女性の喜びを見ることがないことに気付いてほしい」と語っている。この映画が上演されるのは2022年9月の予定だ。

ザ・モンキーズのマイケル・ネスミスがカリフォルニア州カーメル・ヴァレーの自宅で他界した。78歳だった。

ザ・モンキーズは、ビートルズの「A Hard Day’s Night」を下敷きに作られたテレビ番組から誕生した。この番組はブロードウェイの寵児だったデイヴィー・ジョーンズを軸に作られた。ジョーンズ以外のメンバー3名は広告で「おかしい男子(英語ではinsane boys)」を募集したところ、437人が応募してきた中から選ばれている。番組は1966年の9月に開始後すぐに大人気となり、バンドが最初に出した7曲はすべてチャートのトップ3入りを果たした。しかし大成功の半面、バンドのメンバー達、特にネスミスは、閉塞感を感じていた。彼らは自分たちが演奏する曲も選べず、演奏自体もセッションプレイヤーが行っていた。ネスミスは自分の曲「Different Drum」を使いたいと申し出たものの、モンキーズらしくないと却下されている。この曲は、リンダ・ロンシュタットの初めてのヒットとなった。他にも彼が書いた「Mary, Mary」はポール・バターフィールド・ブルース・バンドがレコーディングし、彼らの転機となった『East-West』アルバムにモンキーズ以前に収録された(さらに後年Run DMCによりカバーされた)。モンキーズは3枚目のアルバムでチャート1位となったが、驚いたことにシングルはヒットしなかった。1968年の10月、来日したモンキーズは武道館でコンサートを行う。このコンサートの映像はTBSにより録画・放映された。この映像はTBS自体は紛失したか破棄したようだが、モンキーズのコレクター等は血眼になって映像を探しており、音源に至っては海賊版が多く出ている。バンドはその後も高い人気を誇ったが、1968年12月に公開された『Head(邦題:ザ・モンキーズ恋の合言葉Head!)』という奇妙な映画に出たことから人気に大きく陰りが出始め、ピーター・トークはバンドを脱退する。1970年の4月にはマイケル・ネスミスも脱退を決めたが、彼は契約が残っていたため違約金15万ドルを支払う羽目になる。この時の借金を彼は母の遺産4千万ドルを相続した1980年まで支払い続けることになる(彼の母は秘書をしながら修正液を発明した)。

モンキーズ脱退後、ネスミスは自分のバンド、ファースト・ナショナル・バンドを立ち上げ、カントリーロックのジャンルで活動する。ファースト・ナショナル・バンドには「Joanne」というヒット曲があるが、他はそこそこの成功、といったところだった。このバンドも解散した後、ザ・イーグルスがカントリーロックのジャンルを押し上げた。

ネスミスはまた、他のアーティストにも曲を書いていて、イアン・マシューズやバート・ジャンスらのプロデュースも手掛けている。彼は他にも、ミュージック・ビデオの発案者でもある。1980年、ポップ・クリップスというケーブルテレビの番組を作り、これをタイム・ワーナー社が買収して後のMTVとなるのだ。ネスミスは、ライオネル・リッチのビデオ「All Night Long」や、マイケル・ジャクソンの「The Way You Make Me Feel」をプロデュースしている。

マイケル・ネスミス、安らかに。

変わり種だが素晴らしいデュオ、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツが、自レーベルアイドルワイルド・レコーディングスから新アルバム『Book』をリリースした。彼らは3月からUSツアーを開催するそうだが、38回のライブのうち、36会場がすでに売り切れているという。

タワー・オブ・パワーのシンガー、レイ・グリーンが以前の雇い主であるサンタナに戻ることになった。多くのバンドはシンガーが1度でも脱退すると人気を落とすものだが、驚くべきことに、タワー・オブ・パワーは今までにリードシンガーを11人変更しながらも50年以上もその人気を保ってきているのだ!今度は、以前リードシンガーを務めていたラリー・ブラッグスが戻ってくるようだ。かたやサンタナもリードシンガーを次々変えて(9度ほどと思われる)きたが、こちらもいまだに世界中をツアーして回る強いバンドだ。しかし、サンタナはメインプレイヤーのカルロス・サンタナが「予想外の心臓手術」を必要としているとして、7回のライブをキャンセル。カルロスは74歳となるが、速やかな回復を祈る。

サックスの巨人、スケリックはこのところ、スコット・アメンドーラvsウィル・ブレーズ『Everybody Wins』(ロイヤル・ポテト・レコード)にタートスのギタリスト、ジェフ・パーカーと、ブラジル人パーカッショニストのサイロ・バプティスタと一緒に参加、また、ネルス・クライン・シンガーズの『Share the Wealth』(ブルーノートレコード)にはトレヴァー・ダン、サイロ・バプティスタ、スコット・アメンドーラと、さらにガラージ・ア・トロワ『Calm Down Cologne』(ロイヤル・ポテト)、にはチャーリー・ハンターとスタントン・ムーアらと、素晴らしいアルバムに参加しているが、コロナ状況によりアルバム・ツアーができないでいる。ただ、ガレージ・ア・トロワ、アメンドーラvsブレーズは来年のギグをすでに発表しているので、そこで彼らの素晴らしい新作を堪能できることを祈りたい。