ザ・モンキーズのマイケル・ネスミスがカリフォルニア州カーメル・ヴァレーの自宅で他界した。78歳だった。

ザ・モンキーズは、ビートルズの「A Hard Day’s Night」を下敷きに作られたテレビ番組から誕生した。この番組はブロードウェイの寵児だったデイヴィー・ジョーンズを軸に作られた。ジョーンズ以外のメンバー3名は広告で「おかしい男子(英語ではinsane boys)」を募集したところ、437人が応募してきた中から選ばれている。番組は1966年の9月に開始後すぐに大人気となり、バンドが最初に出した7曲はすべてチャートのトップ3入りを果たした。しかし大成功の半面、バンドのメンバー達、特にネスミスは、閉塞感を感じていた。彼らは自分たちが演奏する曲も選べず、演奏自体もセッションプレイヤーが行っていた。ネスミスは自分の曲「Different Drum」を使いたいと申し出たものの、モンキーズらしくないと却下されている。この曲は、リンダ・ロンシュタットの初めてのヒットとなった。他にも彼が書いた「Mary, Mary」はポール・バターフィールド・ブルース・バンドがレコーディングし、彼らの転機となった『East-West』アルバムにモンキーズ以前に収録された(さらに後年Run DMCによりカバーされた)。モンキーズは3枚目のアルバムでチャート1位となったが、驚いたことにシングルはヒットしなかった。1968年の10月、来日したモンキーズは武道館でコンサートを行う。このコンサートの映像はTBSにより録画・放映された。この映像はTBS自体は紛失したか破棄したようだが、モンキーズのコレクター等は血眼になって映像を探しており、音源に至っては海賊版が多く出ている。バンドはその後も高い人気を誇ったが、1968年12月に公開された『Head(邦題:ザ・モンキーズ恋の合言葉Head!)』という奇妙な映画に出たことから人気に大きく陰りが出始め、ピーター・トークはバンドを脱退する。1970年の4月にはマイケル・ネスミスも脱退を決めたが、彼は契約が残っていたため違約金15万ドルを支払う羽目になる。この時の借金を彼は母の遺産4千万ドルを相続した1980年まで支払い続けることになる(彼の母は秘書をしながら修正液を発明した)。

モンキーズ脱退後、ネスミスは自分のバンド、ファースト・ナショナル・バンドを立ち上げ、カントリーロックのジャンルで活動する。ファースト・ナショナル・バンドには「Joanne」というヒット曲があるが、他はそこそこの成功、といったところだった。このバンドも解散した後、ザ・イーグルスがカントリーロックのジャンルを押し上げた。

ネスミスはまた、他のアーティストにも曲を書いていて、イアン・マシューズやバート・ジャンスらのプロデュースも手掛けている。彼は他にも、ミュージック・ビデオの発案者でもある。1980年、ポップ・クリップスというケーブルテレビの番組を作り、これをタイム・ワーナー社が買収して後のMTVとなるのだ。ネスミスは、ライオネル・リッチのビデオ「All Night Long」や、マイケル・ジャクソンの「The Way You Make Me Feel」をプロデュースしている。

マイケル・ネスミス、安らかに。