テナー・ジャズサックスの偉人だったファラオ・サンダースが81歳で他界した。サンダーズが最初に音楽界で注目されたのは、ジョン・コルトレーンとの共演だった。彼らはカリフォルニア州オークランドで出会い、1965年に『Ascension』の録音でコラボ。本人名義でのアルバムでは、一部彼の日本や中東への旅から影響された強い精神世界からの影響を露わにしていた。
彼はセシル・テイラー、クララ・ブレイ、ロニー・リストン・スミス、セシル・マクビー、スタンレー・クラーク、ソニー・シャーロックやビル・ラズウェルを含む多くの著名なアーティストとも共演していた。2003年には、スリープ・ウォーカーという日本のバンドとも共演し、2020年にはイギリスのミュージシャン、フローティング・ポイントとの共作でマーキュリー賞を受賞していた。

訃報:Ramsey Lewis

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ジャズの偉人、ラムゼイ・ルイスが87歳で他界した。ルイスはシカゴの貧困の中で育ったが、教会の聖歌隊の音楽家だった父から早くにピアノを学び始める。彼は最初のアルバムを1956年にチェス・レコードから出版、そこからバードランド、ヴィレッジ・ヴァンガードやニューポート・ジャズ・フェスティバルでの演奏につながっている。しかし、彼の最も知られている作品は1965年のインストゥルメント曲「The In Crowd」だろう。1968年、1969年には日本でレコーディングしたライブアルバムをリリースしている。1074年、彼の「Sun Goddess」と1976年の「Tequila Mockingbird」はアース・ウィンド・アンド・ファイアのモーリス・ホワイトがプロデュースし、バンドのメンバーも多く参加した。彼には5枚のゴールド・アルバムがあり、グラミー賞も3度受賞している。彼はDJや音楽の教育者としても活動していた。
安らかに。

 

Joey DeFrancescoが他界

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B3(ハモンド)オルガン奏者、ジョーイ・デフランチェスコが51歳で他界。原因は発表されていない。音楽家としては三代目で、非常に画期的なプレイヤーだった彼の影響で、B3オルガンへの世界的な興味を再燃させた。ジョーイは10歳でプロ奏者になり、17歳で最初のメジャーアルバムを録音。大体においてジャズ奏者と思われていて、高校生の時にジャズの偉人と言われるマイルス・デイヴィスと、またクリスチャン・マクブライドとの共演ではグラミーを受賞、ファラオ・サンダーズ、デイヴィッド・サンボーンらと共演しているが、ロックシンガーのヴァン・モリソンやベット・ミドラーとも共演している。彼のあこがれだったジミー・スミスと同じくフィラデルフィアの出身で、高校時代のクラスメートにはドラマーのクエストラヴ・トンプソンやギタリストのカート・ローゼンウィンケルもいた。安らかに。

訃報:Lamont Dozier

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作曲家でプロデューサーのラモン・ドジャーが81歳で他界した。彼はデトロイトをベースに活躍したプロダクションチーム、ホランド・ドジャー・ホランドの一員で、モータウンレーベルのヒット曲の多くを手掛けた。彼が手掛けた中にはシュープリームスの10のチャート1位曲が含まれる。後に、インヴィクタスやホット・ワックスなどのレーベルも創立し、それらでフリーダ・ペイン、ハニー・コーン、チェアマン・オブ・ザ・ボードなどを手掛ける。他にも、フィル・コリンズ、ピーボ・ブライソン&レジーナ・ベル、アリソン・モイエ、ミック・ハックネルに曲を提供または共作していた。

音楽業界はまた、偉大な人を亡くした。レーベルの代表だったモー・オースティンは95歳で他界となった。オースティンは1954年に業界での活動を開始、友人のノーマン・グランツのクレフ・レコードに参加し、のちにMGMに買収されることになるヴァ―ヴ・レコードを創設。1960年にはフランク・シナトラに雇われて、スタート・アップレーベルだったリプライズをけん引し、これが1963年にはワーナー・ブラザーズに吸収され、彼はその後ワーナーのCEOとなった。
彼の功績の中には、キンクス、ジミ・ヘンドリックス、R.E.M、ニール・ヤング、ポール・サイモン、ザ・セックス・ピストルズ、キャプテン・ビーフハート、ダイナソージュニア、レッド・ホット・チリ・ペッパー、フリートウッド・マックら多くのミュージシャンとの契約がある。
彼はミュージシャンを第一とし、個人的に広報官を雇うような多くのレーベル指導者と違い注目されることを嫌い、結果多くのアーティストらに愛された。また、彼はバスケットボールの大ファンで、LAレイカーズによく友人のジャック・ニコルソンと行っている姿が見られた。卒業校であるUCLAには2千万ドルの寄付を行い、そのうち半分は音楽学校に、もう半分はバスケットボール施設に、と言づけたという。
安らかに。

音楽ビジネスの伝説と呼ばれた男、アート・ループが104歳で他界した。ピッツバーグのユダヤ系、アーサー・ゴールドバーグとして生まれ、スペシャルティ・レーベルを1046年にロスで始めた。彼は当時のメジャーレーベルが興味を示さなかったR&Bにフォーカス。彼本人がロサンゼルスのナイトクラブを徘徊し、才能のあるアーティストを探した。また、売れるアーティストを聞き分ける耳を持っていた。ループのもっとも有名な発掘は、14曲のトップテンヒットをもつ華やかなるリトル・リチャードだ。リチャードはロックのスタンダードとなる「Bad Boy」「Slow Down」 「Dizzy Miss Lizzy」や「Bonie Maronie」などを作曲、世に広めた。
ループはまた、多くのゴスペルシンガーをサポートしていて、その中から羽ばたいたのがソウルフルなバラード・シンガーのサム・クックだった。
LAを基盤に活躍していたループだったが、ニューオリンズにも強いつながりがあり、そこで「Personality」「Lawdy Miss Clawdy”」「Stagger Lee」などで大ヒットを飛ばしたロイド・プライスを発掘。また、非常に影響力のあるギタリストとなったギター・スリムもここで遭遇した。彼はのちに「The Things That I Used to Do」でミリオン・セラーとなった。

1960年代になるとループはぺイオラ(ラジオDJに違法な料金を払いイベントなどでプレイしてもらうこと)などの流行りに辟易したのもあり、音楽業界自体に飽きてしまい、他の事業を起こす。1991年にはスペシャルティ・レーベルもファンタジー・レコードに売却した。
音楽業界の本物の偉人の一人、アート・ループよ、安らかに。

ジャズピアニストのジェシカ・ウィリアムズが73歳で、長い闘病の末、他界した。彼女は共感覚(音の刺激に対して色も連動する知覚現象)を持っていたことからも幼いころからピアノを始めた。彼女はフィリー・ジョー・ジョーンズとの共演で脚光を浴び、70年代半ばにサンフランシスコに移住して著名なキーストーン・コーナーの専属ピアニストとして多くのジャズプレイヤーと共演。その相手にはエディ・ハリス、ボビー・ハッチャーソン、チャーリー・ヘイデンやスタン・ゲッツ、他にもシンガーのフローラ・プリムやキティ・マーゴリスなど。ウィリアムズはビル・エヴァンスと比べられる熱烈な演奏スタイルで、クリーン・カッツ、ブラック・ホーク、キャンディッドやオリジンなど多くのレコード・レーベルとも仕事をしている。安らかに。

音楽のランドマークと言っても過言でないタワーレコード・サンセットが解体、8月にはシュプリームのストアとして開店する。タワーのサンセット・ストアは南カリフォルニア最初の店舗として1971年に開店。サンセット大通りに面し、ウィスキー・ア・ゴーゴーなど数多くのライブハウスに近接、レインボウ・バー・アンド・グリル、「ザ・ライオット・ハウス」のニックネームを持つハイアットホテルも近く、サンセット通りの音楽シーンの錨として機能していた。このストアは、レコードや媒体音楽だけを扱う店舗がまだ非常に少なかった時代に約2640平方メートルの床面積を誇り、1974年にはギネスの世界記録にも掲載された。この店舗の数多くのセレクションを目当てに、様々なジャンルを愛好する音楽ファン(ロックスター、音楽業界の人々、様々なセレブも含む)が詰めかけた。エルトン・ジョンはこの店舗に行くと何時間も探索し、100枚単位でアルバムを購入することで知られていた。店舗には、その後クラシック音楽やビデオのコーナーも併設。多くのスタッフはミュージシャンで、アクセル・ローズ、スラッシュ、デイヴ・グロール、ヴェルヴェット・リヴォルヴァーのデイヴ・クシュナーやプロデューサーのシルヴィア・メッセーらも一時ここで働いていた。ハリウッドのど真ん中に位置することから、歴史的なインストアライブも多く開催している。2006年にタワー・レコードが清算されたことにより閉店。閉店後、短期間服屋として開店した。その後、音楽イベントや映画のために、昔のタワーレコードと同じようにペイント直しされた。ギブソン・ミュージック・インストゥルメントが長期間リースの契約を締結したが、開示されない理由によりすぐ解除。近年、映画『Pam & Tommy』の撮影用にタワーレコードに見えるよう化粧直しをされた。世紀のレコードストアの一つだった。RIP

60年代のポップ・スター、ロニー・スペクターが78歳、癌で他界した。本名ヴェロニカ・ベネットはニューヨーク市生まれで、ザ・ロネッツ(彼女の姉妹やいとこも参加したバンド)で人気を博した。ロネッツには大ヒット曲「Be My Baby」(ブライアン・ウィルソンに最も偉大なポップソングと評された)「Baby I Love You」や「Walking In The Rain」がある。これらの曲はすべてフィル・スペクターがプロデュース、ロニーは1968年から74年の間彼と結婚していた。ザ・ロネッツは当時絶大な人気を誇り、1966年にはビートルズとツアーに出る、アップル・レーベルとの契約などを行っている。1967年のロネッツ解散後は大きなヒットはなかったものの、ロニー・スペクターはサウスサイド・ジョニー、エディ・マニーやミスフィッツ、ラモーンズのレコーディングに参加。1990年の自伝では、元夫フィル・スペクターを嫉妬深く、束縛が強い、誇大妄想的でちょっと気が狂っているようだ、と告発した。その後フィル・スペクターは女友達を殺害した罪で収監され、まだ出てきていない。
ロニー、安らかに。

モーフィンのドラマー、ビリー・コンウェイが、65歳で癌により他界した。ボストンをベースに1985年から91年の間活動したバンド、トリート・ハー・ライトで、ビリーは最初に世に出ている。このバンドのスタイルはスワンピーな、ストリップド・ダウン・ロックの中でもブルースよりだった。1989年にバンド仲間のマーク・サンドマンがサイド・プロジェクトとして、よりダークな、夢見るようなサウンドのモーフィンを立ち上げ、サンドマンがボーカルとツー・ストリング・ベースを担当、ダナ・コリーがバリトンサックスを担当。ビリーがモーフィンに参加したのは少し後で、モーフィンの傑作と呼ばれた1993年ライコディスクから出版された「Cure For Pain」に携わっている。その後、メジャーレーベルから出版したアルバムにも参加。モーフィンのアルバムは堅実に、着実に売り上げ、日本各所で行ったものも含むツアーによってファン層も広まり(日本ツアーの映像はドキュメンタリー『Journey of Dreams』にも使われている)、また映画『Spanking the Monkey』ではモーフィンの曲が多く使われた。悲劇的なことに、マーク・サンドマンは1999年に舞台上で心臓発作に襲われ死去したが、バンド自体は高い人気を誇った。モーフィンの消滅後、ビリーは新たなプロジェクトバンド、トゥワインマンを恋人かつシンガーのローリー・サージェントと結成、また2020年には唯一のソロアルバム『Outside Inside』をリリースした。安らかに。